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あかつき 事件簿

学園長の 身辺報告や雑感を 週刊誌風にまとめたものです

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1130今週のスクラップブック

ここ1か月編集する 2012年11月30日19:23
希死念慮の妄想にくるしんだ25歳の女性に、振り回されましたが、どうにか納まりました。


要は、過保護過干渉の「呑むか呑まれるかの共依存」関係の母娘関係のなかで、幼くして人格を解離させた少女が、その幼稚な部分であやつる奇怪な抽象的言語のなかで、自分の妄想に駆り立てられた状態でした。
*ほかにも、数例、こうした若い女性を知ってますが、過保護というのが「虐待」なんだという常識を、なぜ日本人は失ったのでしょうか?

たまたま周囲に、アングラ的な環境があって、周りのマニアックなBFたちが、寄ってたかってもりあげていたみたいで。

自分が一番盛り上げていた最年長の45歳のBFがパニクって、「このままだと彼女は自死します」と、SOSが入り。

彼女が海外に出た直後から10日間ほど、その彼から彼女に送るメールの、山のような分量を、逐語添削して、その送付間隔まで細かく指示して、彼女に論理的思考をおくりこむことで、悪夢から覚めさせる方法をとりました。

とちゅうから、本人とも連絡がとれ、早急な回復になりましたが。

それにしても、妄想力というのはスゴイもので。
彼女は、一流私立大の4年生を出て、新卒で一流企業にはいっているのですから。
やはり教育も、企業も、何か、どこか、見ているところが、ちがうんじゃないでしょうかね?


彼女は、心神耗弱のまま、だれと行くのかの同行者の名前も知らせないまま、海外に出てしまったのですが、3か月の予定が、景色が変わったのが良かったのか、2週間で「帰りたい」といいだして。
結局正味3週間で、帰ってきました。
知り合いの介護士や弁護士にも相談して、イザとなれば空港で「自死防止」の処置をとるつもりでしたが。

幸い、彼女が海外にいる段階で、45歳のBFには、自分から「一緒にいると、2人ともダメになる」とお別れメールが出せるほど回復したので、緊急配備はしなくてすみましたが。

能天気に、ワタシを使って、彼女を取り戻すつもりだった45歳は、「ワタシが気に入らない」と、ワタシに決別宣言をしてきましたけど。

正気に戻しすぎたと、文句つけられたのは、初めてです(爆)

幸いクスリもヤーサンも、絡んでなかったので、軽傷ですみましたけど。
育ちは良いヒトたちなんでしょうけど、やはり何かが変です。

細かく書いていくと、切りがないのですが。

一つ面白い話を紹介すると、
「そっちで死ぬのをやめた、きっかけはなに?」
とのワタシに質問に対する、彼女の応えは、
「死んじゃうと、残してきた荷物の整理が、面倒くさいなあと思ったから」
というのです。
すぐに、
「むかし切腹を命じられた武士が、最後に柿を勧められて、「腹が冷えるから」って、断ったっていう落語があるけど。あなたの話は、それみたいで、おかしいでしょ?」
って返信したら、
「おかしいですね」
だって。
まあ、「死ぬ死ぬ」が妄想で、リアルな彼女は、煩雑な荷物の整理を、面倒がっていたわけですから。
このリアルさがあるなら、すぐには死なないなと、ワタシも判断したわけです。


それでも帰ってきても、彼女はまだワタシに「老人の考えを押し付ける」と文句いってますが。
3歳児が三輪車で高速道路を走りに出かけたい理由を、いちいち「はいはい」と聞いてるヒマはないわけで。
45歳のBFは、そのひとつひとつを、いちいち同情して涙してくれたんだそうで。
その同情に、「うまれて初めて愛を感じた」というのですから。
まあ間違いなく、彼女が「不幸な育ち」だったことは、確かなようです。


それにしても、アングラ文化がケシカランというのではなくて、こうした世界では、男たちは、30歳すぎても、自分のカマケテたいことだけに夢中で、恋人の安全安心も守れない(守る気がない)、中学生レベルのヒトたちがほとんどなことに、驚きました。
愛を知らない孤児たちは、愛を知らない世界を、彷徨い歩くしかないんでしょうね。

未来型不幸というのか、日本のメルトダウンは、すでに心の中で起こっていますね。


選挙にむけた政治家たちの言葉が、むなしく聞こえる、年の瀬になりそうです。

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テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記

  1. 2012/11/30(金) 20:38:55|
  2. 今週のスクラップ
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1102今週のスクラップブック

日展に落選しました編集する 2012年11月02日17:17
1878774100_28.jpg

いろいろ、あるんです(苦笑)


で、観たいといってくださる方が結構いて、1月に個展ひらきます。

「草上の昼食」と同じになりましたね(爆)




希死念慮について編集する 2012年10月18日01:25 公開している友人一覧
小学生のころから、希死念慮があり。
最近ますます強くなってきたという、25歳の女性とお話しました。

前提として、彼女は、家庭内離婚による母子家庭環境で、姉と育ち、父親との接触はほとんどなかったようです。

大学付属高校から4年生大学に進み、企業に就職しますが、過呼吸症候群の発生にともない退職。
現在は舞踏家をめざして、奮闘中です。

で、希死念慮は小学生のころからあり、大学生時代も、姉の精神的不安定で家族カウンセリングを受ける際も、母親拒否からの彼女の過呼吸で、受診ができなかったとか。

この夏、夏バテとともに、食事恐怖・睡眠恐怖を起こしています。

この回復期ごろから、幼児期のフラッシュバックは消えたものの、希死念慮が強くなり、確信的なものになりつつあると、口にするようになりました。

全身に重くのしかかる感じで、舞踏家として、目標への計画も、頭では考えるが、具体的な行動化となると、動きが取れなくなるとか。

もともと、ダンスへの傾倒も、こうした凍結感情への、行動化による解凍がキッカケと考えられ。
だから、ダンスにかかわる周辺とも、「I'm not OK」の言動が散見し。
ダンス仲間、特に年長者は、過剰適応した彼女の言動に、好感を持つが、一部はそれを利用して、ワガママを言い出す手合いもあって、「not OKーnot OK」のゲームが爆発することもあったようです。

この夏、幼児期からの、頭に渦巻く、「もうひとりのワタシ」について、話すようになり。
それについて、詳しく話すと、話を避けるようになります。

17日、久しぶりに話が再開します。


以下、その主な内容です。

A「新しいことをしようとすると、希死念慮が強くなる」
B「別なワタシについて話をしようとすることも、別なワタシが、邪魔をする」
C「母の言葉とわかっていながら、それはワタシのなかにいて、それがワタシにいってくる」

という話から、TA(交流分析)でいうCPに、彼女の分離自立を恐れる母親の禁止令が混じりこんでいると予想して、「魔女の呪い」の仕組みについて、説明しました。

たまたま喫茶店で話が進んだため、不合理な禁止令と対決する治療ができず、「魔女の呪い」の言葉による説明だけになりましたが。
シンデレラや一寸法師といった、禁止令に苦しんだ話の事例も説明することで、幸い彼女は、「魔女の呪い」理論が、自分の身に起こっていることを説明していると、納得しました。

「存在するな」「notOKな子」「楽しむな」などなど、不合理な禁止令が、究極「自立するな」という禁止令になって、「自立したら死ぬ→自立するには、死ななくてはいけない→だから死ぬべきだ」という、不合理な「希死念慮」として意識化されたとのワタシの説明で、前進への意欲化は芽生えたようです。

ただその不合理性についての言葉の説明だけでは、まだまだ奥深く仕掛けられた禁止令の呪いは、溶けにくと思われ。

「他人に迷惑かけるな」「他人に甘えるな」「他人を頼るな」「男はみんなオオカミだ」といった禁止令が、まだまだ隠れている可能性はあります。

そこで当面は、「舞踏家養成計画」を進めるなかで、情緒表現や身体的トレーニングを邪魔する、不合理な思い込みを排除することで、呪いをひとつひとつつぶしていく計画でいます。

このことによって彼女が、魔女の呪いの影響から離れて、「自立した女性として、自分がしたいことを、自由に楽しみ謳歌できる」状況になることが、ダンスの進化と発展につながるよう、舞踏家訓練を企画していきたいと考えています。


コメント
イイネ!(1) 退会したユーザー



近未来型のひとつの人間関係?編集する 2012年10月17日02:49 ■介入家庭、暴力と甘言で支配…尼崎ドラム缶事件
(読売新聞 - 10月16日 16:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2189281
むかしからあるパターンではあるけど。
同時に、近未来型でもある。

弱みに付け込むだけでなくて、「泣き落とし」「ブリッ子につけ込む」「ほめ殺し」などなど、手口は万別。

要は、こっちが、「自分の好き嫌い・都合」に正直であることが、最大の防御策。

しかし「常識・義理・寂しさ・心配・情愛・同情・見栄・欲望・自尊心・褒められたい願望・共感・妄想の共有・自己欺瞞・イジメラレ体験の投影同一視」などなど、ひっかる要素は、ゴマンとある。

「暴力と甘言」は、原始的なだけに、支配力が強い。
一方、価値観共有妄想は、若いインテリ層が、引っ掛かりやすい。

対・マスゴミの情報操作も含めて、現実認知力の錬磨は、年齢に関係なく必要。

「自分は大丈夫」という老人が、振り込め詐欺に引っかかっている。

「常識」というのは、「みんなが騙されているだけ」かもしれないと、2,3回は疑わないと(笑)

「父は厳しい・母はやさしい」とか、「男は強くて、女は弱い」とか、「誰かの政治的都合に合わせた」家庭内での非現実で不合理な迷信を、「家族神話」というけど。
社会にも、どこかの政党のマニィフェストや、「原発の安全神話」みたいなモノが、たくさんある。

コメント
イイネ!(2) ドクCRーZ モタ(・ω・|*
コメント


ゆか2012年10月17日 03:21
はじめまして
マインドコントロールは児童虐待でもPTSDの症状が出たり、オウムの事件もマインドコントロールの一種かと思います。人間いつ巻き込まれるかわからない。加害者はいったいどんな心理なのか。又どんな育てられ方してきたのか。人を追い込んでまで何を求めてるのかよくわからない。痛ましい事件で心が痛みます コメント
絵師2012年10月17日 03:33
> ゆかさん 一般論として、加害者も、かつての被虐待が生んだものと思ってます。政治家や企業幹部や高級官僚といった、「支配層」に、案外います。もともと彼らの職業選択に、「支配したい!」願望がありますから。もともと「子どもも含めて、他人を支配できる」こと自体が、妄想ですから(笑)こうした人種の思考形態は、現実的検討が弱くて、妄想的になりやすいです。だから、結果、「他人を追い込む」ことになるのです。戦争と同じで、痛ましい事件は、「われわれの心に生まれる」のです。痛ましいだけに、一層、目をそらしてはいけないことです。
アリス2012年10月18日 23:07
  「暴力と甘言」は、原始的なだけに、支配力が強い。
・・・これって怖いほど、支配力強いと思うわ

運悪くこの状態に、迷いこんだらどうしたらいいのかしらネ コメント
絵師2012年10月19日 08:40
> アリスさん 
書いた返事が、消えましたので、また書きますが。「暴力と甘言」は、家族から国家の支配原理まで、ヒトの社会組織論に通底する、基本的な問題ですね。

絵師2012年10月19日 15:56
では、書きます(笑)

国家を含めて、組織暴力は、破壊力が大きいというだけで、家庭内暴力や恋人間DVと、基本的には変わらない「支配・被支配」という、本来は対等であるべき人間関係に入り込んだ、政治的関係の極端な表現にすぎません。

抽象論はさておき、最近体験した例を挙げてみます。
田舎の友人のケースなのですが。
男の子が2人いて、長男はピアノの才能があり、中学校の教師。次男は、脳に軽い器質障害があり、最近はアルコール中毒の治療もうけていて、親父が若いころから続けてきた喫茶店を手伝っていました。

で、数年前、たまたま小金を手に入れた親父が支援して、40歳すぎた次男が、別に喫茶店をひらいたのですが、失敗。
小金を失った親父に、次男は暴力をふるって、友人から借金するように強要し。
その暴力は、数度、救急車をよぶほどでした。
周囲の友人は心配するのですが、この親子間DVは収まらず、兄のガッコのセンセも、怒鳴るだけで、手段がなく、結局、たまたま故郷に帰っていたワタシが、老人虐待に詳しいということで、呼ばれました。

で、ワタシの取った方法は、まず親父を破産させて、資金源を断つこと。
周囲の友人には、金銭的支援を一切禁止しました。
親父の生活は、生活保護を受けることにし、この破産手続きは、ワタシが長年監査役をしている老人虐待防止のNPOの専門家に依頼し。
生活保護手続きと、親父の身柄保護は、市役所の生活保護課に依頼しました。

要は、一般市民が、親切心で介入しても、当事者や家族はもちろんハマッてしまってますし、周囲もムダな説教だけに終始して、ラチが空きません。
一番頼りないのが、医者と市会議員でした。
次に頼りないのは、警察でした。
「家庭内暴力への不介入」が徹底しすぎて、田舎でありながら、この家族の問題についいての情報は、市役所よりもつかんでいませんでした。

むしろ実務を積み上げてきている、NPOや市の専門役人たちが、ルール原則を守ることを通じて、混乱した親子関係に、筋道を通す役目をはたしてくれました。
日本の役人は、現場にいくほど、信頼性が、高いみたいです(爆)

このケースでは、要は、暴力を断じて許さない原則を、外部の組織的働きかけで、親父の身の安全を守る方法も含めて、積み上げていく方法が、成功につながりました。



当時、石巻で、若い夫婦間DVから、妻の友人が数人殺傷される事件がありましたが。
ここでも、相談を受けた警察の、後手後手の対応が、事件発生前から近所から非難されましたが。
警察は、体質的に「事件が起きてから」の仕事で、事前対応はできにくいようです。

それだけに、家族内DVでは、家族内か周囲に、「小さな暴力も許さない」ヒトがいて、そのヒトが周囲に騒ぎ回ることが、周囲の注意を引くことになるようです。
このケースでは、ワタシがその役割を果たし、ワタシ自身は、その次男には、親父が借金を申し入れにきたとき、父親の監視についてきた次男に会った以外。
以後一切、直接タッチせずに、周囲に事情を話し、それぞれが出来る支援をお願いする役に徹底しました。
お陰で、はるか400km離れた東京にいながらにしてワタシは、40年近くこの街を離れて生活しても、彼ら一家の日常生活ぶりの変化は、飲み屋のオバサン情報も利用して、手に取るように把握できました(笑)
もちろんこれは、その田舎は、ワタシが18歳まで育った街で友人が多く、電話越しにささやくひとことからも、情報提供者の心の漣が把握できたから、実現できたことですが。

同じ条件で、今、この街でトップ当選した友人の市会議員の男は、「バカ息子、けしからん!うちの息子なら、ひっぱたいてやる!」と憤慨しているだけで、何一つ具体的な働きかけはできませんでした
絵師2012年10月19日 17:05
次は、ちょっと違った角度からの、家庭内暴力のお話です。

それは直接的な暴力ではなく、言葉と態度による親の児童虐待の、成人後の子ども側に現れた被害の実態と、その克服の事例なんですが。

このメカニズムは、ごく数日前に構造が見えてきたばかりなので、少し、ワタシも整理してから、また書きますが。

ともかく、このタイプの子どもへの暴力は、その結果、内面に植え付けられた苦痛を、誰かに口にすることすらできないほど、子どもをガンジガラメにして、追い詰めて。
やがて成人後、親から自立しようとすると、子どもを自死に駆り立てるほど、子どもの内面を蝕むということです。

最近の「自殺防止策」の議論では、「自死を思うヒトの性格上の特徴」とかを議論して、さも自殺者の内面を覗いたようなことをいって。
揚句にフロイトの「死の衝動」とかって、マンガみたいなこといって、専門家顔をしていますが。

そんなトンチンカンなこといっていたのでは、自死を望む者の性格が、どのような環境と状況で育ち、「自死がごく自然に選択されていくプロセス」や「自分を自死に追い込む」心のメカニズムが見えないわけで、その程度の洞察力では、自死は防止できません。

表に見えるPTSDの多くにひそむ、「生きようとするエネルギーが、自死につながる仕掛け」こそ、子ども虐待の最大の影響でしょう。

これこそ、内部に仕掛けられた時限爆弾なわけで。
これは起爆装置をはずさない限り、その子が老人になっても、装置は起動するのです。

これも、「支配・被支配の暴力装置化した家族」という、表からは見えにく、「支配暴力の毒」なんです。

実に恐ろしい、「魔女の呪い」とは、これです。
しかし一方、「シンデレラ」や「眠り姫」や「一寸法師」といった話の奥に、人類はその洞察力を散りばめています。

「年間3万人の自死者」を減らすお上のお知恵は、まだ手がかりもない状態なんじゃないかな?
アリス2012年10月20日 17:04
> 絵師さん 
説明、ありがとうございます

 仕掛けられた時限爆弾なわけで。
 これは起爆装置をはずさない限り、その子が老人になっても、装置は 起動するのです。
・・・難しい問題ですネ コメント
絵師2012年10月20日 23:40
いえ、案外に簡単なんです、実は。
そのことに、深く深く悩んでていてさえくれれば、出口はすぐです。

最初に戻りますが、「自分の都合、最優先」というシンプルな視線で、物事を見直していただけば良いだけなんです。

もちろん、ヒトは、さまざま事情を抱えてます。
そんな「自分の都合だけで、世の中は割り切れません」

しかし、所詮は、最後は、自分の人生なんです。
迷いも躊躇も、そうさせた他人のセイではなくて、それを選んだ、自分の責任です。

面白いことに、自死に至るヒトは、超自己チューです。
家族も友人の心情も、すべてかなぐり捨てて、「狭い自己都合」だけで、自死を選びます。
残された家族の悲嘆など、歯牙にもかけず、彼らは自死を選びます。
可愛いのは、自分だけなんです。
神経症が、「幼稚な自我の疲弊」と呼ばれることに、似ています。

矛盾に聞こえるでしょうが、ここであげた例は、「自立への強い願望」が、「希死念慮」を呼び込んだ事例です。
ある意味で、「君がしたいことは、なんだ?」との、ワタシの問いかけが、彼女の「希死念慮」を呼んだとも、いえる事例です。
しかし、「危ないとき、いつもワタシに助けられた」と、彼女は言いますが。
本来の彼女は、「生きることを、望んでいたのです」
ワタシは何もしてません。
強いていうなら、「こんなジジイでも生きてるから、ワタシも生きてても良いかも」と思わせた効果が、あったら、嬉しい、ぐらいです。
ワタシのなかに、「生きる勇気」を、彼女は、勝手に自分で、見出しただけです。
教育というのは、「生きる勇気をあたえること」なはずですから、ワタシの反面教師は、正解だったということです。


実際、彼女もそうでしたが、毎朝目を開ける瞬間、「今日、生きるか?死ぬか?」を、実は我々は選択しています。
ひと呼吸ごとに、「死を裏切って、生きることを選択する」ことが、実は我々の人生のドラマ(間違えも、多々ありますけど(笑))です。
そしてその責任を、「間違えても、よいじゃん!だから、どうした!」と、自分で取る勇気こそが、生きる力です。

間違えって、正解より、いろいろヴァリエーションがあって、楽しいス(笑)
どうせ我々は、宇宙を彷徨う砂粒が、たまたま「生きるチャンスを与えられた、偶然」なんですから(笑)

その神秘と、美しさと、矛盾と、バカバカしさを、十分に味わうことが、生命のミッッションだろうと思います。

この話のモデルは、舞踏家の卵なんですが、たまたま本日の彼女のライブは、彼女の「過去へ鎮魂のセレモニー」でした。
しかも彼女は、それを周囲の若い仲間たちにも、問いかける形で、セレモニーにしていました。

これは、感動モノでした。

こんな表現力が、ダンスにあることを、ワタシは初めて知らされました。

嬉しかったです。
そして、ワタシのような老人までが、生きる勇気をもらいました。

若者たちの歓談をあとに、今、帰って来たばかりです



ワタシの制作への思考過程について、編集する 2012年10月11日10:30 興味のある方がいるので、少し一般論に敷衍して、補足しておきます。


1 特に現代の平面工芸(染・織・漆・彫金など、作品がパネルや屏風といった平面の場合)は、「抽象・具象を問わず、画面構成のデザイン力とそれを支える技術」の力量が、評価基準になります。
電気窯や化学薬剤の普及などにより、かなり陶芸教室の地方普及もあって、制作人口がふえている陶芸もまた、評価基準は、この延長にありますが、立体構成の側面が、加味されます。

特にワタシの前作への、先輩幹部からの注意点は、染色としての基本技術(色の染まり具合、色の選択、装飾性の配分)と、特に「限定された平面表現への挑戦=立体感・画面からの外へのひろがり」が、要求されました。
*考えてみれば、ローカルとはいえ、会派内展覧会では、ワタシは賞をいただいたわけで。
2作目は、テーマは同じながら、それを捨てての、新しい構想なので、少しみなさん、驚いたようです。

2 実はワタシの場合、洋画家であった親父のテーマが、「静物画による、物の存在感とその配置による空間表現」が主題だったという前提があります。

そして親父の絵では、それを表現する技法として、画面構成、形体、色彩、質感・量感表現や遠近法といった技術が、総動員されて、「写実以上の写実」が、特に親父60歳代以降94歳で亡くなるまで、追及されました。

しかしそれ以前の、特に40歳代の親父の作品には、控え目な気品を保ちながらも強い情緒性がありますが。
40代後半からは、写実性の中の情緒性をかなぐり捨てて、形態の輪郭や要所を決定する大胆な線描と、色としての「黒」への固執が出てきます。

その後、70歳代以降の親父の作品は、色彩がゆたかになり、さらに画面に「気韻」とも言うべき、独特の味わいがでてきて。
以後この、温度や静謐感や静かな情熱といった、独特の精神性が、親父の絵には、香り高く漂うことになります。

そんなわけで、親父の絵には、際立った強いテーマ性はないのですが。
親父が見たい「桃源郷的な理想的な静物的仮想現実」が再現されていて。
それが日本人の美意識のひとつである、「物の本質に迫る」という点に、合致したと考えています。

とりわけ親父の代表作『古き雛』(1983年日展文部大臣賞)は、背景に彼の両親の故郷である山形県鶴岡への郷愁をたたえながら、日本人の油彩表現の「重さと軽み」のなかで、重厚な存在感を発揮しています。
ワタシのように、神話性を表には出さずに、ひそかに日本人の季節感・生活感を表現した技は、彼がめざした「職人芸の粋」でもあったわけです。

*で、ともかく、だから、ワタシの画面内での遠近法の活用による、画面にあふれるリズム感などは、親父から学んだことが、多々使われています。

3 一方、まわりの現代工芸作品は、ほとんどが、実際には、構成と技術と色彩の競いあいで。
1に書いたように、先輩幹部の助言のように、染色としての基本技術と、画面構成力と、「立体感・画面からの外へのひろがり」が、追及されています。

*ところが見回したところ、染色作品で、立体性を表現しているものは、あまりなかったです。
もともと着物は長方形の布を仕立てたものなわけで。
その模様付けをベースにした染色は、浮世絵的平面画面の組み合わせなため、そこに立体的奥行表現を求めることは、浮世絵に油絵表現を求めるのと同じことで、もともと無理なわけです。
たまたま幼いころから洋画を見慣れて育ってきたために、ワタシの場合、遠近法は、子どものころのお絵描き遊びでは、オモチャのひとつだったので、逆に友禅を描いてても、邪魔することが多く、困ってました。
しかし求めが「画面の立体化」である以上、古い友禅の伝統職人である師匠の作品は、ここの表現に失敗しているために、彼は現代の展覧会芸術の流れからは、取り残されてしまうことになるわけです。
もちろんこれは、単眼的に世界を見るか、複眼的に世界を見るかという、ものの考え方の根本にも、かかわってくることなのですが。

で、そうしたなかで、題材は、むしろそのデザイン構成力を表現するための素材としてあつかわれ、中身は、虫だろうが風景だろうが静物であろうが、まったくの抽象であろうが、なんでも良いわけです。

これは、印象派の登場により、神話性を捨てて、リアルな具象から、さらに抽象性に解体された、現代文芸の美意識の、ひとつの流れであることは確かです。

ただ、その「個性」の追求が、結局、「細分化され、疲弊した自我=エゴの愚痴?」が芸術だあ!、みたいな自己欺瞞を育てたように。
「だから、どうした?!」と問われたら、応えようがない、現代を生き抜く力は、そこからは見えてこないわけです。

*現代ではタブー視されてますが、面白いことに、ナチの芸術が、神話性を復活させたことで、暗く不気味ですが、力強さだけは表現しています。
日本の戦争画でも、藤田嗣二なんどは、映画的な画面構成で、ややイカサマぽいですが、素人受けが高かったですが、それ以上の名画がたくさんあります。
親父が30歳代で描いた、特高隊員の肖像画などは、その精神性において、描いた本人はなにごとも優柔不断なヘタレなくせに、なぜここまで描けるのか?と、驚くばかりです。
これも、神話性が導く理想主義の力でしょうね。

しかしともかく、現代日本美術の最高峰といわれる展覧会に出品される、混迷した工芸作品をみていると、これなら、新車や新しい電気ポットのデザインの方が、神話に代わって、機能性と経済性の追求という目的が明確なので、明らかに現実的で、実用的で、美しいわいと、思ってしまうわけです。

かつて昭和初期、当時の新素材の発明や顔料の発展もあって、着物の需要がピークに達したころの、百花繚乱を競った着物のデザインと同じで。
「需要」こそが、芸を育てたともいえるわけです。

この点、着物需要が激減している現代で、染色に何ができるか?を、考えると。

ワタシの場合は、カメラや油絵や彫刻や演劇や小説や映画やといった、あまたある「表現技法のなかの、たまたま選択できた自己表現方法のひとつ」という、選択肢にすぎなくなるわけです

前に一部書きましたが、染色がもつ庶民芸術としての未完成さが、油絵や日本画と違って、表現の自由度を残している点が、特に友禅の面白さです。
例えば「四季もみじ」などといって、一枚の着物に、春夏秋冬のモミジを描いて、一年中着てしまうことなどは、いかにも庶民的奔放さで、好きなんですが。
逆に現代では、こうした約束ごとすら、審査員レベルが知らないことがあって。
「松島なのに、松が描いてない」とか、赤い輪郭は、「紅葉なのか?夕陽なのか?」とかって。
つまんない質問をしてくる手合いまで、いまして。
忘れられた約束事は、歌舞伎の習慣と同じで、マニアルにないと知らないヒトがふえているので、厄介です。

ただ牧歌的ともいうべき、友禅の素朴な表現力と色彩の風合いは、100号近い(150cm×150cm)大画面の、リアルな描画には不向きでして。
ハッキリいって、どうしても沈んだネボケた色彩に落ち着くので、そこをどう作品の風合いに組み込んでいくかが、課題ではありますが、また一方、職人としての楽しみでもあります。
1作目、「展覧会は、パフォーマンスだ」という師匠の発想で原色を散りばめたところ、幹部からは、「ああゆう生の色を使うのは、本来の染色ではやらない」と注意されて。
2作目からは、古典的江戸友禅色だけを、使いました。

なんのことはない、歌舞伎と戦国武将の陣羽織の色彩だけでも、十分に派手な色彩模様は描けるわけでして。
しかも見た目は派手でも、歴史的な色なので、今風な薄っぺらなデパートの包装紙のような色よりも、はるかに落ち着くことは確かで。
こうした歴史的な色彩が内包する、表現力の可能性という面は、まだまだ追及する要素がありそうです。


4 で、ワタシの作品は、否応なしに、この親父が構築した世界が、前提になっています。
しかし、ワタシの場合、前稿の「影向について」でもわかるように、制作には、前提に「表現したいテーマ」があります。

ところがこれは、むしろ現代工芸では、異質な制作姿勢です。

端的に言えば、「疲弊した自我表現のための主題と技術」ではなくて、ワタシの場合、「主題」が先にあって、それを表現するための方法として、友禅染色がある、という考え方なわけです。
これは、親父の構図や色だけをそっくりに真似て、精神性の無い、「似て非なる作品を、直弟子と称して発表してきた親父の弟子たちの、死骸のような作品群」も、影響しています。
強いて言えば、「あれは、弟子とはいわない。直系はワタシだ」ということを証明してみせる必要が、ワタシのなかにあったわけです。
ですから今回の出品は、展覧会の油絵部門にはびこる、油絵から精神性を剥ぎ取った親父の弟子たちへの、仇討合戦でもあるんです(笑)
*これはなぜワタシが、若いころから絵を目指さなかったのか?という問題にもからむのですが。それはまた別に書きます。

で、しかもワタシの「主題」は、「生きる幻想」なわけで。
原初的神話への探訪と回帰は、本来の我々の中に眠るエネルギーの発見につながると考えてるわけです。

生まれ落ちて以来、日々、生と死の狭間に生きる我々が、一息呼吸するたびに、身を翻して、死を裏切り、生を選ぶ瞬間こそが、ドラマの原点だろうと、思っているわけで。
そこに垣間見えるビジョンこそが、幻想でありながら、リアリティーを持つわけで。

だからそうした根っこに、「生の原点の不安と矛盾」を抱えていない芸術は、ブルジュア俗物の甘ったれた小児的神経症のヒマ潰しだろうとしか、ワタシは見ていないんです。

で、俗物に対峙するために、ワタシはそうした「生の基底」を、原始的な民俗信仰的世界を背景に、追及してみたかったわけです。

そしてそれが、ワタシの作品に漂う生命力であり、躍動感であり、迫力であるわけで。
その強調として、遠慮がちながら、今回若い女神の舞踏を、画面に紛れ込ませたわけです。


*たまたまですが今回、派閥会派内の作品のなかで、人物を描いた作品が、4点ありました。

1点は、染色で、画面右下4分の1に、ワンピース姿の若い女性像が、仁王立ちして横を向いている、ファッション雑誌から採ったようなポーズで、シンプルな姿で描かれていて、洒落た都会的なイラスト風にまとまっていました。
惜しむらくは、デッサン力が不足していて、左右に開いた足のデッサンが、リアルでもなく、抽象的でもなく、半端でした。
まあ風俗画ですね。
浮世絵春画も、名作になれば、活き活きとした生命を切り取る迫力があるので、風俗画が悪いとはいいませんが。
ただキレイなだけでは、大人の芸とはいえず、見てる方が退屈します。

もう一点は、彫銀作品で、窓から身を乗り出す女性像(作者本人だそうです)で、憧れだったイタリア観光の際、朝、ホテルから外の景色を見たときの感激をデザインしたと、いってましたが。
感激の自己陶酔が先にきて、人物像のデッサンが狂っていました。
周辺のローマらしい景色描写も、何に感激したのか、まったくみえませんでした。

彼女は、某・超有名な国立芸術大の出身で、技術的には最高のものでしたが。
エリートの限界で、中身がカラッポで、ガッコのセンセでもしててもらうしか、ないですね。
人物の表情も露骨な微笑みで、こんな私的な顔を見せられても、歓ぶのは亭主ぐらいじゃないかしら?
これは彼女のお墓に飾ったら、自己陶酔の激しいヒトの思い出として、みなさんのよすがになるんじゃないかな?

もう一点は、陶芸で。
オバサン陶芸家の作品ですが。
若い女性の大腿部から胸下までの胴体下半分を、手足抜きにして切り取った、いわゆる「トルーソー」を思わせる造形で。
9月の研究会で、未完の状態で見たときは、その微妙に美しいラインが、優雅さと若さを表現しているようで、「このヒトがこれを作ったの?」と、思わず作者のオバサンの顔をみてしまうほどでした。
9月の研究会では、一番に期待した作品だったのですが。
完成品は、表面に施した模様が邪魔して、平凡な陶芸作品になってましていて、ガッカリしました。
自分の「良さ」を見つけて、そこを大胆に表現の焦点に絞りこむことは、案外にムズカシイことなのです。
全体的な仕事(装飾作業)をしないと作品にならないのですが、やりすぎると、主題を邪魔するわけで。
その兼ね合いのバランスが、センスなんですね。
カラオケだって、聞かせたいサビはちょっとで、後は鼻歌でよいのですから。
失敗の積み上げがないと、コツはつかめません。
ワタシの場合も、画面に奥行きを与える女神像が、全体のツカミとリズムを邪魔しないことに、一番に苦労しましたから。

で、どの作品も、技術的には最高水準なのですが、ワタシには、作品を通じて、作者が何を訴えたいのかが、理解できませんでした。
つまりテーマ性が無いということは、技術の羅列に終わってしまうことになるのです。
これこそが現代工芸芸術が陥っている、技術の物神化です。
だから、展覧会が、技術見本市になって、なんの感動もうまなくなるんです。

一方、漆作品の屏風で、ワタシの作風を気に入ってくれている先輩の作品は、具象部分は皆無で、まったくの抽象画面なのですが、小洒落た遊びも含めて、均整のとれたデザインで、「売れる芸術品」として、見事にベテラン性を発揮していました。
この「欲しい!」と思わせる色気も、工芸作品には、必要な要素でしょうね(笑)
これは新車やiPHONのニューヴァージョンのデザインの、最高級品って感じです。
これはこれで、見事に美しいです。

一方、某美術大学の教官を中心にした若手陶芸家グループの作品は、造形力は確かなのですが、9月の研究会では入選間違いなしといわれた数点は、装飾性を狙いすぎて、失敗してました。
彼らは、ワタシの前作の迫力を、シゲシゲ眺めて勉強して、ツカミを重視したようですが。
ワタシに迫力の源泉になる思考過程を聞かないで、表面だけを真似たので、派手な装飾性だけが浮いてしまって、結局失敗してしまいました。
気の毒なことをしました。
ワタシは、ただ迫力を狙ったんではなくて、神性の力を表現したくて、迫力を追求したんで。
陶器を、金や銀でゴテゴテ派手に飾れば、迫力が出るだろうというのは、まったくの心得違いなんです。
むかしの伝統芸の職人だって、そんな品の悪いことは、してませんから(苦笑)

ここにもテーマ性を探ろうとする姿勢がない、現代工芸の制作思想の弱点が、露呈されてます。
美大の教師にしては、しゃべる言葉に奥行がなくて、動機が不純だなあとは感じてましたが、やはり作品にそれが出てしまいました。
悪趣味と、ほど良い装飾とでは、天と地の開きがあります。
まあ、失敗も、コヤシにしていただくしかないです。


で、ともかく、ワタシの作品は、やたら質実剛健で、せっかくの綺麗でかわいい女神さんも、その華やかさを消して登場させてますので。
もったいないとは、思ってます。

いずれ、元禄の花見踊りのような、超・華やかなのも、作ってみたいですね。
腕があがったら、女神たちが裸で輪舞・乱舞している群像などは、老人性痴ほう症が描く桃源郷として、マジに最高のテーマかもしれません(笑)

*以上、前稿の「影向について」の、前提になる話です。
この前提がないと、結論だけみてると、思考過程は、みえてこないですよね。
ごめんなさいでしたm(__)m

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絵師2012年10月11日 13:19
蛇足ながら、親父の職人芸の価値観もあって、ワタシも、「テーマ性が優先して、説教臭くてなってはいけない。絵描きの説教など、だれも聞かない。絵描きは、絵の表現力で勝負すべきだ」という考え方に、います。
だから作品の上でのテーマ性は、ワタシにとっては、作品の力を支える、補強材にすぎない顔をすることになります。
ただ見た目のメインテーマ以外に、隠れた通底するもっと大きなテーマがあることは、作品にイラストとは違う含蓄と深みをうむわけです。
もちろん「軽み」が重視される現代では、重厚さは、顧みられることがすくない価値観です。
それだけに、軽みと重厚さのバランスが、流れのなかでの静と動のバランスと同じくらい、重要になってくるわけです。



公募展の搬入手続きが、編集する 2012年10月09日18:33 今日、1日がかりで、終わりました。

去年の入選者数から、今年は100人減らすとか。

この道20年、30年のベテランでも、精気に欠ける作品は、落選するでしょう。
平均年齢が、72、3歳の、業界を代表する老芸術家たちも、厳しい闘いを強いられてます

でも、これって良いことです。

「失われた20年」という言葉は、芸術の世界でも、あったわけですから。

老人というだけで、絵に精気がなくなったら、舞台からは、降りるべきでしょう。

それが、自分では判断つかないのが、ヒトでして。
だから、キャリアや権力や地位にしがみつくのですが。

芸術だけは、嘘が通用しません。

だからこうした世界で、落選は、自己責任です。


傾いていく日本のなかで、芸術だけが、無傷ではいられないはず。

今日、福島から朝5時起きして作品を運んできたというオジサンは、
「除洗した跡に置かれた、政府の計器は、初めから値が低く設定されていて。別な計器で測ると、いきなり高くなるんだ!」
と、怒ってました。


落ちる夕日を、止める力は、誰のなかに宿るのか?


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イイネ!(2) NA 退会したユーザー




3 ついでに、蛇足を付け加えると。

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1863年エドゥアール・マネによって発表された『草上の昼食』は、先の『田園の合奏』や、真ん中にUPした1515年頃にマルカントニオ・ライモンディによって制作された、ラファエロの『パリスの審判』を基にした銅版画に、準拠しながら(右にUPしたのが、原型の構図とポーズ)を、ベースにしています。
しかしマネは、男性2人を服を着た状態で描き、女性のみを裸のままに、さらに奥に水浴する半裸の女性を配置しました。
しかも、女性が脱いだ服を左下のピクニックの持ち物の中に置くことによって、「裸で昼食をとった現実の女性」を描いたので、当時、大騒動を巻き起こします。
このなかで、モデル女性のヴィクトリーヌ・ムーランは、2人の男性が目をそらしているのに対し、しっかりと観る者と視線を交わして、伝統的な神話風裸体表現とは違うことを、強調しています。
マネの『草上の昼食』は、「女性の裸体像」が、神話性を失った、現代絵画の嚆矢なわけです。

逆に言えば、裸体も含めて、人間をリアルの描く、現代文芸の始まりともいえます。
この印象派嚆矢のマネの絵画は、モネやセザンヌやピカソが、同じテーマで、独自の解釈を試みるくらい、多くの謎を含んでいて、未だ解釈がつかない部分が多々あります。

4 こうした天才たちの描写力には、及びようもないのですが。
かくして、凡人・ワタシの来年のテーマは。

混迷する現代に、英知の女神の影向を願う気持ちとして。
来年のワタシの女神像は、再び岩倉(古代の巨岩信仰や後世の山岳信仰の流れにある、もともと神が宿る場所の意味)から、かすかに姿を見せることにしたいと、思ってます(笑)

細かな輪郭が十分描けない友禅の性質もあって、まだ女神が裸体である必然性までは、まだ感じてませんで。
正直言えば、今の段階で、友禅に裸体の女神を持ち込んでも、現代の猥雑な裸体観に汚された見る側の目に、まともな鑑賞は期待できないわけで(苦笑)
今回の絵でも、袴を翻す女神を描きこむことすら、当初、師匠は、そのむき出しの手足が「若々しくて、生々しすぎる」と、抵抗を示したんですから(苦笑)
*実はこの師匠の自己愛的欺瞞的価値観が、師匠の創造者としての限界を示しているのですが。このことは、改めて、「創造者の創造エネルギーとしての自己欺瞞」という別の角度から、考えてみるつもりですが。
一般論として、老人が支配権をもつ文化社会で、いきなり若いネルギーを持ち込むことは、かなり抵抗があることは、感じています。
今ワタシが手がかりを得つつある発表の場は、作家たちの平均年齢が、なんと72、3歳だとか!(笑)
ワタシ、若手なんです(爆)
*もっとも、これは承知で、「硬直化した老人世界に、若い息吹を吹き込むことを売りにする」という計算の上で、ワタシも乗り出した世界なんですが(笑)
これは今日(9日)、ワタシの前作を知る先輩の中堅作家から、警戒とともに、「がんばったね」との、ねぎらいの言葉をいただきましたので、成果は出てきてるようです。

で、確かに、女神の身体の線に、初めから視線が集まることは、ワタシがねらったツカミの趣旨とは違うので、丁寧に岩場にお隠れいただいたわけです。
しかしその手足は、微妙な角度と距離をとって、幾重に重ねられた衣服の下に隠れた、ばねのように若い身体の動きの線を暗示してますので。
試作品段階で、すでに80歳近い老女医さんが、「なまめかしいわあ!」と、叫びだす始末でした(笑)

ワタシとしては、女神の舞踏の動きを集約させて描いたつもりでした。
ですから、当然、自然の舞の立ち姿とは違った、動きを含んだ姿になり、それがモデルをして、「ワタシの器がえがかれている」という、表現になったわけです。

今思うと、この老女医の印象は、人体の構図を見慣れている医者だから、見えた感想だったかもしれません。
もうひとり、友人の田舎の産科の女医さんが、写真を見て、同じような驚きを示していましたから。

で、ともかく、今年は「希望の姿」を映したので、次は飛躍の準備態勢と、考えてたのですが。
老い先短い身としては、一気に先にすすんで、次回は「猥雑な苦界(自分の中の猥雑さもふくめて)から昇天する、若々しい理想主義の女神像」にしようかと思っています。

ただ今考えているポーズは、一層、動きの流れをとらえることが難しくなるので、どう表現するか?
ちょっと悩んでますが、成功すれば、友禅という古典的な表現技法による幻想的風合いのなかで、格調高い、かつ躍動感のある、今までに例がない、新しい女神像が浮かび上がることが、望みです。

*ここで、こうした困難への挑戦を書いてしまうことは、今回の作品で、ある程度の勝算が見えてることもありますが。
だからといって、「困難」さは、少しも変わらないわけで。
「自分への、約束」とでも、いいましょうかね(笑)
こう書いてしまうことで、ひたすら専念するターゲットが、できたということでしょう。


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イイネ!(2) アリス 退会したユーザー
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NA2012年10月09日 20:50
モネの「印象 日の出」早朝の港を描いた作品を、まだ幼いころに見たとき、知識も思考もないにかかわらず、ただ驚愕したことを、ふと思い出しました。それは、きっと当時の自分にとって「リアル」だったからでしょう。

影向。先の日記に載せられていた彫刻はすごいですね。滲み出ている!と思いました。現実の女性の中に神(のようなもの)を見たのだという考えには同意です。モネが日の出を眺めて感じたことと多少似ているのではとも思います。その女性、その太陽を描くことで己が日の出の太陽自体になってしまう。それを観た者がまるで現実の日の出よりも日の出のように見える、女よりも女に見える、のかもしれません。
作者が、対象に、何を感じていたか、という過程がすべてですね。
影向を、体感する以上に、作品に落とし込み、影向となる、という感じでしょうか。

負けていられません。 コメント
絵師2012年10月10日 03:11
リアルな女性は、これはこれで奥深い魅力があるわけで。
この幻想像として理想化された女性像と、リラルな女性との落差というが、また魅力ですね(笑)
多分そのことが、いっそう、幻想の中身を、豊穣にしていくでしょうし。
女性に限らず、自然もまた(あなたの海の写真のように)、見られ方に合わせて、そこに命を燃やす瞬間があって(笑)
それこそが、パワーの源なのでしょうが。


芸術では、言葉なり音楽なり絵画なり演技なりに抽象化された結果でして。
描かれた自然や人物や物体は、所詮は抽象化というか記号化といったプロセスのなかで、幻想的側面を持つわけで。
そこに「幻想の真実」が、生まれるわけです。

そして鑑賞者は、自分の体験をそこに重ねて、新たな幻想をつむぎあげるわけで。
そこに作者と鑑賞者の会話がうまれ、さらに作品が一人歩きする要素にもなるわけです。
ワタシは、今このアディアの実験過程にいますが。
今日も、それなりに賛同してくれる仲間はできている手ごたえを、感じています。

で、それだけに、最初のきっかけになる作者が抱いた幻想に、破たんがあってはいけないわけです。

最近体験したことで、さる有名な芸術家で、彼の描く幻想に、もともと破綻があったために、みじめな末路をむかた例がありました。

例えばゴーストライターとかの例が、代表でしょうが。
中には、自分の過去の作品を、自分でコピーする、複雑な偽作者までいて(笑)
作家の文脈としては、「当然」のプロセスが、現代的な「個人の責任によるオリジナル性」という創作の論理からは、「消費財」としては有効でも、芸術的価値からは、筆のミスも含めて、意味をなさないわけです。

こうした例は、結構巷には氾濫していて。
類似品・まがい物として、それはそれなりの消費需要はあるのですが。
オリジナルの力には、及びようもなくて。
まあそれだけ、大量生産・大量消費の現代社会では、オリジナルを生み出す苦悩もふくめて、オリジナルを見つける力が、社会的に弱くなっている気がします。

むかし読んだミステリーで、2人がそれぞれ専門を分業したものがありましたが。
これは主人公像が分裂してしまって、まったく話の呈をなさなくなってました。
こうゆうケースは、それなりの工夫が必要でしょうね。

政治家や思想家がつむぐ幻想にいたっては、賞味期限が短いことがほとんどですが。
江戸時代、地域独特の文化生活が構築されていたのに比べて、昨今の原発依存の地域社会が、空虚な文化成果しか生み出していないことに、改めて驚いてます。

水俣公害が、抵抗文化を生んだように。
これから生まれるのでしょうが。

それにしても芸術も、作家の寿命は一代限りですが。
作品の寿命は、結構長いですね。
太古の洞窟壁画は、数万年の寿命ですから。



絵師2012年10月10日 03:39
それにしても、こうした錯綜した思考のプロセスを、一目で表現してしまうのが、表現としての作品であり、芸なんですね。

創作者と鑑賞者が、相互にわかりあえる出会いは、そうそうあるものではないんです。

うちの親父が、生前言ってました。
「見えるヒト千人。見えないヒト千人。
どこに目が高いヒトがいるかわからないから、だから手抜きはできないんだよ」




来年のテーマの考え方02編集する 2012年10月03日20:32 公開している友人一覧

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最近、あることがあって、また考え方を、少し進めました。

というのは、うちのモデルのコンテンポラリー・ダンスの、画面での扱い方なのですが。

1 「影向(ようごう・えいごう)」という言葉がありまして。古い日本語で、「神や仏が、現実の世界に姿を現すこと」をいうのですが。
日常的にも、まだ神仏が身近にいた江戸時代では、
「これは旦那めづらしの影向や/浮世草子・禁短気」
みたいな、使い方をしてたようです。

で、UP写真左は、平安時代の12世紀の女神坐像で、大津市・建部神社本尊の「日本武尊の妃」といわれる女神像ですが。
この口元を右袖で隠す女神の姿は、従来「容易には姿を見せない、本来の神のあり方を示す」と説明されてきました。
しかし最近、「むしろ女神が姿を現しかけている、影向の像ではないか」という説が、有力になっています。
かすかに首をかしげているかのような姿が、「影向説」ににわかに支持を集めているようです。
ワタシも、この女神のふくよかな微笑みには、後者の説明が似合うと考えてます。

2 で、もって話がとびますが、右側のフランス7月革命(1830年)を描いたウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』(制作年1830年)でも、銃を持つ群衆の先頭に立つ女神は、胸を剥きだしにして、旗を掲げています。
これもまた、胸を出すことで、女神の神聖さを象徴させた、一種の「影向図」ともいえるわけで。
後にこの女神と製作者フレデリク・バルトルディの母親がモデルになって、『自由の女神』が設計され、ニューヨークにわたるわけです。

3 かくして、わたしの女神像は、来年は、再び岩倉(古代の巨岩信仰や後世の山岳信仰の流れにある、もともと神が宿る場所の意味)から、胸は出しませんが、かすかに姿を見せることにしたいと、思ってます(笑)

4 ついでに、最近、うちのモデルが踊ったライブの舞台で、ゾンビと闘うバイオ・ハザードのアリスか、ご町内の平和を守る美少女仮面・ポワトリンのような、可憐にして気高い、「闘う女は美しい」のキャッチコピーそのままの、モデルの凛々しい憤怒の麗姿を垣間見る機会があって。

ポーズとしては、今年は「希望の姿」を映したので、次は飛躍の準備態勢と、考えてたのですが。
これで、一気に先にすすんで、次回は「猥雑な苦界(自分の中の猥雑さもふくめて)から昇天する女神像」にしようかと思っています。

*しかしこうした発憤のポーズは、猥雑な邪鬼を描かないとわかりにくく。
しかし下品な邪鬼に、画面の品格を汚されたくないので、これは止めにしました。
ドラクロワも、やはり敵は描いてないです(笑)

ただ今考えているポーズは、一層、動きの流れをとらえることが難しくなるので、どう表現するか?
ちょっと悩んでますが、成功すれば、格調高い、かつ躍動感のある、今までに例がない、新しい女神像になるといいなあと、期待しています。



震災後の東電の無計画な計画停電による混乱が影響して編集する 2012年10月02日08:44
■115年間で最も厳しい残暑=9月気温、51地点で過去最高―北日本中心に・気象庁
(時事通信社 - 10月01日 20:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2173124&media_id=4
義父の死期が、思いがけなく早くなったこともあったので。
その供養のためにも、今年は冷房は、一度も付けませんでした。

江戸の真夏の屋内で、徹夜仕事が続きましたが。
工夫次第で、汗で仕事を汚すこともなく。
1,2回ボンヤリした瞬間があった程度で、やろうと思えば、耐えられるものですね(笑)



5月28日から編集する 2012年10月01日23:28 ■スプーンに盛った塩、高齢者の口に…施設で虐待
(読売新聞 - 10月01日 19:18)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2173085&media_id=20
10月1日まで、虐待はなかったんだろうなあ。

同じようなケースで、ワタシの仲間のグループは、事前に老人たちの受け入れ先を準備して。
意志決定しやすいヒトから、事前にポツポツ移動を進め、容疑者逮捕中に、残りを一斉に移動させたけどな。


コメント
イイネ!(1) やまびこkt525
コメント


アリス2012年10月03日 00:41
子供の世界でも
お年寄りの政界でも
イジメ・虐待が・・・

悲しくなりますネ

悲しいと言っている間にも、どかで虐待・いじめが・・・

虐待・いじめ
無くしたいです コメント
絵師2012年10月03日 13:30
> アリスさん 
このケースでは、10月1日という、日付が気になります。

ワタシが知るある摘発ケースでは、ある厚生省役人の天下り知事の就任をねらっての、パフォーマンスの疑いがあります。
一応、それもあってか、下準備が出来ていたので、被害老人の救出は、手厚い保護と秘密保持で、敢行されましたが。
逆に言えば、その知事が来なかったら、県組織のバックアップなしには、老人はもっと長く虐待されてたのか?という疑問はあります。
*どこも満杯で、何年待ちの老人施設に、数か月で、10人単位で、入り直せること自体、不思議な話ですから。

救出チームのリーダーは、付き合ううちに、奇妙な名誉欲・出世欲に取りつかれていることが見えてきましたが。
当時はそれはそれと、区別してつきあってましたが、その後、救出チームの主催者は、組織を抜けて、出世していきました。

世の中は、こうした「上手な自己チュー」が、出世できる仕組みになっているようです。

美談・美談と歓こんでいられない、マスゴミ支配社会では、被虐待老人たちが、パフォーマンスに利用される現実もあるってことです



さっき編集する 2012年10月01日22:53 小うるさい職人気質の額装屋の兄貴から、「嫁入り支度は、順調です(笑)」と、連絡がありました。

下手に途中で口出すと、「ウッセーッな!」と、「ワタシの面倒見てる意識」が旺盛な男な、墨田の川向う男なので、聞くに聞けないでいたんです(苦笑)
初対面から、なぜか気があって。
そのあと、いろいろギクシャクがあったのですが、なんのことはない、互いの仕事ブリを見れば、畑は違うけど、そこは職人同志で、両方同じことを考えている、表現の違いだけだということで。
あっけなく、兄弟になりました(爆)

2廻り近く、ワタシより年下なのに、「やるっかないしょ!」みたいなこといって、「オレが兄貴」顔するところが、彼の照れなのか?
もともとうちの師匠の作品の額装仕事をしていて、師匠の信頼が厚い男なのですが。
ワタシの作品の額装について、師匠からの注文を口にすると、「フン」と顔をして、「素人が、余計な口出しするんじゃねえ!」って、言葉には出だしませんが、あからさまにイヤな顔をする男で(笑)

最初に店にいったとき、駅前の商店街で、店番のジイさんに道順を聞いたら、「やさしい、いい男だよ!」とかって、ニコニコ教えてくれて。
「評判良いね」って、お愛想にいったら、「そんなジイさん、良く知らないなあ」とかって、いちいち言うことが、可愛くなくて。

あんな落語の世界のような男が、未だに生きていること自体、不思議な気がします。
あと20年もすれば、あの男、仕事ではなくて、気風で、人間国宝か文化遺産になるかもしれません(笑)

コメント
イイネ!(1) アリス


良いですね!編集する 2012年09月30日17:42

古木と天の川、天文写真2012
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2171526&media_id=126
少年の、宇宙の神秘への、素朴な驚きは、やはり魅力あるテーマです。

子どもの絵と同じで、写真も、なかなか見るべきもが、ありますね。


テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記

  1. 2012/11/02(金) 16:59:16|
  2. 今週のスクラップ
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元・学園長

Author: 元・学園長


ここを執筆する 元・学園長 ですが、還暦はとうにすぎているのに、最近、江戸 手描き友禅 の修行もはじめました。

ここの絵は、当時小学4年生の男の子が描いてくれた絵です。
下手な写真よりも、はるかに元・学園長の特徴をつかんだ、観察力と表現力なので、今でも大切にしています。

はじめての方は、引越しソバ代わりのおみやげもありますので、下記をご覧ください。
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