Home  All  Log in

あかつき 事件簿

学園長の 身辺報告や雑感を 週刊誌風にまとめたものです

病理的な投影同一視について

21日、NHKの

児童ポルノ法についての番組を見ました。

どうも、変な構成の番組でした。
ワタシの意見を変える情報があったら、前言を修整するつもりで見たのですが、むしろ「ネライが見えない、なんのための法改正か?」と、ますます疑問を深くする番組でした。

まず冒頭、児童ポルノに使われた女の子の「怯え」を放映してました。

彼女は、肉親からの過剰な投影同一視による近親姦の犠牲者らしく、加害者はインターネット上に写真をばら撒く行為で、なおも小児性虐待者特有の、「投影同一視の妄想」に浮遊続けているみたいです。
しかしこの加害者は、「業者」としての児童ポルノ屋とは、スタンスが違います。
むしろ被害者には、「今も継続中」の、「近親姦セクハラ」の事例です。

番組演出上の都合なのでしょうが、児童ポルノ問題とは別な本質の問題で論点をズラシた事例の取り上げは、一種の作為的工作で、こうした問題固有の強い投影同一視が働いてます。
*ビデオを撮らなかったので、一回見ただけの印象で、細部の事実関係には、ワタシの投影同一視がはいっているかもしれません。

いずれにせよ、「ネット上に存在する数十万枚のポルノ写真と、自分とを結びつけて怯える」という被害者心理は、むしろ、強いられてきた過剰な投影同一視からでた「妄想思考の伝染」による、主観的な被害妄想の苦痛です。
彼女の心的苦痛に実体がないというのではなくて、主観のワクを組み次第で、軽減も固定化もありえるという点では「相対的な苦痛」だということで、その苦痛が、「軽いとか、重い」とかいっているのではありません。

*********

確かにこれこそが、

家庭内での「過剰な投影同一視による精神的虐待」の、「心的外傷被害の実態」なのです。

で、この幼い解離妄想状態に押し込められた被害者の心理は、「学校でみんなから、ズル休みといわれる」からと、家に閉じこもって、ブルブルと全身を震わせる不登校児の「想像上の恐怖」と、同じ構造と質のものです。
クラス担任に代表される、この不登校児をかこむ周囲からは、「イジメなんか、ありません」と言い切られるだけでなく、こうした「KYな怯え」が、周囲の「ウザイ・クサイ」を呼んで、イジメを誘発することすらあるのです。

ですから、この場合、ネット上の写真をなくしても、この近親姦被害者の「保護者への信頼を裏切られた」傷は癒せません。
「ポルノを見ることが、犯罪実行につながる」との関連妄想と同じくらい、「世にはびこる膨大な数のポルノと、この被害者の苦痛」の因果関係は、主観的です。
「父親に似てた」というだけで、電車の中で女子高生に痴漢と叫ばれる冤罪被害者と同じで、外からはこの因果関係は証明ができません。

あの被害者への支援だけを考えるなら、まずカウンセラーを変えないと、マズイです。
まだ被害途上にいるクライエントの、苦痛を固定しかねない危険を無視して、彼女の出演に同意したカウンセラーは、「クライエントの悩みを克服した後の姿を、思い描けてない」という意味で、それがどんな資格認定を受けて経験を持った人材であろうと、カウンセラーとしての、アドバイザーとしての、資格・資質を疑います。

ところであのカウンセラーとNHKの番組担当者は、あの被害者の娘に、「児童ポルノ撲滅のために、あなたの画像を放送で公開することは、ひょっとすると貴女の苦痛を固定して、もしかするとうつ病や自死的気分に、あなたは追い詰められる可能性もあるんだけど、そのときは必ず支援するから、それでも良いか?」との、説明をして本人の意思を確かめたのでしょうか?
*「その批判は、想像じゃないか」という反論がありそうですが、不特定多数が見る報道特集である以上、「保護者に、性的に利用され、信頼を裏切られた」強い不安の只中にいる被害者が、「安全に保護された環境」にあることを示すためには、誤解を防ぐためにもNHKは、「インフォームドコンセントがあった」事実を、テロップすべきです。
*逆に言えば、あの運動を進めているヒトたちや、まして今週の番組を埋めれば仕事が終わるジャーナリストの人権擁護意識というのは、この程度だということです。で、このカウンセラーが素人ではないとすれば、こうした危険は、彼女が阻止する義務があるのです。
*こう見てくると、あの番組に出演したカウンセラー・被害者・製作担当者の意図と、背後にある組織的背景には、さまざまな想像と疑問が浮かんできます。
しかし、具体的な情報が手元にないので控えておきますが、この法改正が、「国民の性的妄想への介入」という問題につながりかねないだけに、気にはなっています。

*********

「自己愛構造体」の病理性が

強い(=自分自身が、解決していない自分の課題を抱えている)カウンセラーは、支配欲が強くなるため、クライエントはかなりの時間、カウンセラーの投影同一視の食い物にされ、グルグルと堂々巡りさせられたり、ときには「こんなはずではなかった」という予想も付かない結末に、「自己責任」で導かれることもあります。
特にこうした被害者は、被暗示性が高い傾向があるので、慎重な対応が必要です。
これが、未熟なカウンセラーによる二次被害であり、苦痛の固定と拡大です。

一方、社会的には、ああしたNHKの捉え方は、被害者の子を使って、視聴者に憎悪を固定化して、報復主義を増長します。
さらに、あのような放映画像は、ヴァンパイアたちに新しい近親姦を誘発することすらあります。

少なくとも、ただの単純な幼児ポルノ写真より、きちんとスーツを着た、あの被害者の「後ろ姿と肉声の悲惨な映像」は、彼女の生活環境・背景まで具体的に映して、その傾向を持つヒトには、衝撃的なイメージを強く植えつけたはず。
あの画像を見たかなりの数の父親が、足元で遊ぶ幼い子どもを暗い目で眺めたことは確かで、他の表現方法の可能性も含めて、それをカウンセラーやNHKは、想像できなかったのでしょうか?
もちろん知っててやったのなら、犯罪的です。

毎日TVドラマでは、かなりの数のヒトが殺されますが、それで世間に殺人事件は、増えないでしょう。
しかしこうしたタイプの衝動を動機とする犯罪では、マスコミ報道が強い衝撃を与えることがあることは、古くは日中戦争中に起きた都井睦雄による「津山30人殺し事件」が、その前年の阿部定事件への加熱した新聞報道に影響されていた例をあげるまでもなく、最近の連続通り魔殺人や幼女殺しでも、「マスコミ報道に影響されて」起きていることからも、経験的に想像できます。

このマスコミ幻想共同体のメカニズムは、マスメディアの利点と弊害のなかでは、その情報操作と並んで、影響部分のもっとも深部な弊害であって、メディア・リテラシーとしては、重要なテーマになるはずです。
加害者の精神では、被暗示性が強いこともありますが、もともとその世界観が、投影同一視と白昼夢といった「解離に満ちた、衝動的幻想」に支えられている部分が多いことがうかがえるからです。

幼児の行水写真まで、「単純所持禁止」の対象にしようという人たちにしては、この被害者の画像放映は、無神経です。

カウンセラーもNHKも、加害者の中に起きる投影同一視の働きの、メカニズムと怖さを理解していないから、こうした形の演出がうまれたのでしょう。
これもまた、精神医学界の怠慢が生んだ、弊害です。

*最近、セクハラで裁判官が、小学校のロリコン教師が、あい次いで捕まってます。
「一罰百戒」などといってないで、子どもたちからガキの噂レベルの「不審者情報」を集めているくらいなんだから、学校での子どもへのセクハラは、その気になれば、かなり正確なものが集まるはず。

この際トコトン浄化運動やってみたらどうだろ?
経験的に言って、子どもってこうした問題では、情動的な欲がまだ浅いから、案外にウソは言わないものなんです。
情報を隠蔽するような教育委員会や警察なら、みんなして叩けば良いし(爆)
文化大革命みたいな混乱が、日本にもおきて、文部科学省が真っ青になるかしら?
ガッコのエロ・センの人員交代も進むだろうし。一石二鳥じゃん。

もしかして、それがネライの法改正キャンペーンだったら、「隠れ賛成派」になってあげたいけど、それでもまだ、腑に落ちないなあ。

*********

ところで近親姦については、

多くの論説がありますが、生物学的、文化人類学的立場からの説明よりも、加害者・被害者を縛る日常的な心理機制に、基本的な要因をわたしは見ています。
*この意味で、近親姦については、「病的な投影同一視の展開場面」のひとつとして、いずれ整理します。

結論的に予見だけをあげておけば、古くソクラテスが、近親姦について「育ちが悪いという事態が生じる」といっていることは、断片的な言説なので、具体的にどんな状態を表現しているのかが見えませんが、当時すでに、近親姦が「人格構造に安定が欠ける、状態なり結末」が生まれることを、ソクラテスが認識していたことを示しています。

現代の心理学では、近親姦の影響としては、境界性人格障害様の反応や解離性同一性障害を含む解離性障害が現れると考えています。
これは一種の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状と考えられており、また非常に外傷体験が複合した形式であるため、複雑性PTSDとも言われてます。
症状としては「恥、絶望、自尊心の欠如、自傷行為、酷い鬱など」があり、自死にいたる場合もありますが、一方、すべての近親姦で、これが発生するわけでもありません。

ジョルジュ・バタイユは、文化人類学者の「子どもを交換財」と考える説に寄りながら、「自分に属している物を自らに禁じる者が行う留保により、尊重と慎みと遠慮が暴力性に打ち勝つような世界の雰囲気を作り出すために」、近親相姦のタブーは存在するとみなしています。
つまりは近親姦を行わないことは、「人間らしさに対する尊厳そのもの」なのだとしているのです。

この二人の相違は、それぞれの性的な嗜好性の違い、なのでしょうか?
古いソクラテスよりも、最近のバタイユの方に、ジェンダー的な「子どもへの所有意識」が残っていることが、おもしろいです。

日本のあまり多くはない近親姦研究では、1957年の久保摂二による研究でも、当事者の性モラル制限域が低い、「幼児的な」投影同一視的な混乱がおきていることが見えます。

1993年の精神科医の斎藤学の、投影同一視を多用する境界例患者の調査では、20%ほどに接触性近親姦(直接の性行為にいたらない性的接触)の経験があるとの結果が出ています。

ジュディス・ハーマンの『父-娘 近親姦(Father-Doughter Incest)』(1981)での、40人の被害を受けた女性についての研究では、父-娘近親姦の家族パターンは「家父長的」が主流とされていて、これが今の世界的な定説のようです。

しかし実際には様々な形があり、S. Kirschner, D.A. Kirschner, R.L. Rappaport (1993) は「父親が優位である家族」「母親が優位である家族」「混沌とした家族」の3つのパターンを記述しています。

Price.M (1994) は、父親と娘における近親姦の事例に共通して見られる「混沌、秘密、境界の侵害、役割の混乱」について指摘し、「過保護とネグレットが繰り返され」、無理矢理に子どもが自分たちの家族は「理想的だと思い込まされる」ことを記述しています。
「病的な投影同一視」と「白昼夢的な幻想」が、見えています。

イノセント・タブーについては、アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの、「親子の間で官能的愛着を形成する必要は人間形成や自己感を確立して、失望や挫折感を乗り越えるために必要」とされ、「性欲の掟は子どもが親から分離する必要や、性欲より社会を重視すべしという能力のため」との説明は、「自立圧力」が強いアメリカの教育文化的偏差を差し引いても、魅力的です。
ときに「内面化」に失敗する家族があるところが、文化的な社会的圧力であることを示すとともに、ファンタジックな妄想を呼ぶ要素も説明しています。

ワタシ流に表現すれば、「投影同一視を中核とする家族内自己中毒による非社会化禁止」の内面化ということでしょう。

ただ、全人類的なタブーとして、ほとんど無意識化するほどに内面化するには、「生活文化的な要素」からだけでは、説明できない圧力かなあ、とも思います。
フロイトの近親姦幻想を思い出すまでもなく、「家族内関係での無性化」の圧力は、もう少し考えないといけませんね。

************

ここでワタシが知る

性的虐待(必ずしも「近親姦」ではありません)の例をあげておくと、まず実の息子二人と、息子が中学生になるころまで、接触近親姦をした初老の男性僧侶の例です。

彼は、直接的な性関係ではないのですが、昼寝中の息子の性器にいつも触っていたそうで、その思い出を語るときの彼は、明らかに若い男性器への憧れを、ウットリとその表情にも出していました。
彼は、「悩み」として話してくれたわけはなくて、たまたま夜遅くまでいろいろと話し込んだ挙句の、「仲良し同志の明け話」として、抵抗もなく愛想よく話してくれたわけで、しかも地域の指導的な役職についていて、その人当たりは「家父長的」とはまったく正反対で、むしろ「少年的な素直な人格」でした。
で、彼はこの資質を使って、近所の主婦のクドクドした悩み相談にも、「わがことのように、親身になって」丁寧に対応していました。

この事例では、家父長的支配幻想というより、同性愛を背景とする投影同一視でしょうが、彼の二人の息子は、現在、独立した家庭を営み、健全な子育てをしていましたし、彼の妻は田舎病院の看護婦長で、食事しながらの家族内での情愛交流には、特に奇妙な支配行動は感じませんでした。

もうひとつは、女性のチャイルド・マレスター(=小児性虐待者)の例ですが、彼女はペドフィリア(小児性愛の嗜好障害=子どもとの性愛を夢想する精神医学上のカテゴリー)ではありません。
彼女は、特別な思い入れを持った養子の男の子を溺愛し、中学入学まで同じ布団に寝て、幼児期から接触的近親姦をしています。
その後、彼が男性的に成長すると、ネグレットと小言による厳しい支配にシフトを変えて、彼を大学で不登校に追い込みます。
彼女は容才兼備で有能でしたが、感情の起伏が激しく、子どものときは、大店の養女として、いくつかの商家を転々とし、幼児期に出入りの職人からの性的虐待をうけていました。

このほかに小学校・中学校の女性教師の、接触性チャイルド・マレスターの確認例が、それぞれ1例づつ手元にあります。
共に常習的ではなく、たまたま被害者とは、投影同一視を展開する上での、条件と親和性が高かったようで、「相思相愛」関係ではありましたが、年齢差がありすぎて、「恋愛」とは呼び得ない、不均衡な関係であったことは、当事者たちも認めていました。

次に、直接の近親姦ではないのですが、愛人に娘との性的関係を勧めた例が3例(うち1件は、実際にある期間、並行した関係継続がありました)、娘のBFと関係した例が1例、子どももある婿と関係した義理の母の例が1例ありました。
いずれも強い投影同一視が発動し、支配操作の一環として、愛人の青年も娘も使われていました。
この5人の母親のうち4人までは、自分自身に近親姦ないし接触的近親姦の経験がありました。


何が言いたいかというと、「自分の白昼夢を、強い害毒を流さない程度に、身近を対象に小刻みに、ジコチューな妄想衝動を実現する人格」は、数としては多くはないが、案外に身近にはいるということなのです。

つまり近親姦の事例として表出しているのは、たまたま極端な投影同一視が繰り返されて、「家族内の隠された秘密」の域を超えた、家族内の人格上の障害や破綻が、「家族問題」として表面化した事例と考えた方が、現実的でしょう。

************

以上のような点から、

近親姦を「家父長的権威の逸脱」ととらえるよりも、わたしは「家父長権威」という舞台を利用した、「権威幻想に守られた病的な投影同一視=自我構造体の病理的な展開」と説明した方が、現代的なさまざまな現象にも、事態の本質が説明できるし、現実的な対応が展開しやすいと考えます。

実際、94歳弱で亡くなったワタシの親父は、近親姦の加害者でこそありませんでしたが、その生涯は「自己愛構造体の病理」を展開したヒトで、最晩年になっても「家父長的幻想」から不合理な言動をしめし、家族や周辺にいろいろな困惑をまきおこしました。
しかしワタシの観察によると、実際は周囲の「幻想共同体妄想」に、彼のなかの「解離性妄想」が連動したものでした。

そこで、周囲の病理的な妄想性をあぶり出し、その相互感応環境を整理することで、親父とお袋は、いたって穏やかな情緒生活を、数年、送ることができました。
*簡単に言えば、自他の区別なく、ゴチョゴチョと勝手に出入りする周囲を遮断したのですが、これには「投影同一視幻想共同体」の田舎の上流社交界が猛烈に反発し、親父の死後7年たった今でも、不満がクスブッているようです。

ワタシの説明と対応への最大の抵抗は、むしろ老年内科の医師群と学校の元教師群(親父はたまたまあることで一芸に秀でていて、しかも権威主義的色彩が強い環境にいたので、元教師たちに弟子群を中心とする権威主義という幻想共同体の、中核に位置していたのです)でした。

で、人工透析中の袋の心臓を止めたものは、ワタシのスキを見てお袋が、親父にいわれて連絡をとった外部「妄想」との、やりとりの負荷でした。

お袋の死後、1年間、自分がな亡くなるまで親父は、「彼女は、自分が殺した」といい続けていましたが、それは自分が「外部の解離性妄想」と連絡を命じて、彼女の死のきっかけを作ったことへの後悔でした。
ただし、この「後悔」が、「自己同一視する対象を失った苦痛 」だけで、お袋を悼んだものでないことは、2週間後、94歳を前にして、「再婚したい」と言い出したことからもわかります(笑)

特に高齢者カップルの、ほとんどDVに近い、「二人精神病」と思われる激しい攻防では、事態の本質を見抜いた上での介入の工夫次第で、かなり状況が改善されます。
『事件簿』2001年06月11日号06月18日号06月25日号

高齢者社会の充実には、身体的な老化対策だけでなく、喪失された「共同体幻想」への対応もふくめて、こうした精神衛生への見通しが、必要になると考えています。

*******

ワタシの立場は、

「事態への対応が優先」で、その展望を見わたすために、説明が工面されています。
たとえば、家父長的な権威を振り回すDV加害者には、ワタシ自身の権威の無さを誇張して、彼のなかの家父長権威を、容赦なく相対化します。
「価値観の相対化」という、ひとつのこころみです。

親父の場合は、彼が白日夢に解離すると、現実に目をむけさせるために、食事や作業やイベントによる、日常生活を組織化することで、解離の深化を防ぎました。
むしろ厄介だったのはお袋で、彼女の解離性白昼夢は、表面的には行動化のきっかけがわかりにくかったです。
強いていえば、「二人の穏やかな生活を守る息子」への「裏切り」へは後悔があったようで、逆算して「イタズラ」的衝動の封じ込めに焦点を絞ることで、かなり成果がありました。

ただ妄想と衝動行動と冷静化は、まだらに出現し、おもに外部からの妄想刺激に、感応しやすいです。
最後、「親父の依頼」を盾に、彼女は息子に内緒で、外部の「幻想共同体」と連絡をとるのですが、本人は外部の妄想を、「カラカって遊ぶ(支配できる)」ぐらいのつもりだったようです。

しかし敵は、彼女が思う以上の妄想を集団で膨らませていて、ワタシの管理を経ないで、妄想を直接ぶつけられた心労が、彼女の心臓を止めるのですが、きっかけが「自分の息子への裏切り行為」だったので、死の直前まで、息子の目を逃れて、お袋はコソコソしてました。
*外部妄想集団のある主要メンバーの一人の家庭では、近親姦がおきていることは、念のため報告しておきます。

少なくとも、

子育てに関していえば、今の時点での結論は、親の子育てにおいては、子どもへのスキンシップもふくめた十分な情愛を注ぎながら、性欲と暴力は制御する(子どもの人格を認めることで、投影同一視を排除する)ことが、結果として、健全な子育てになるというものです。

つまり対人関係力のベースになる性的関係で、その性的エネルギーの発散は、両性が対等な立場での「安心」のなかで、相互の主体性によって身体を与えあうことで実現するわけです。

ですから、近親姦や性的虐待で起きる一方的な「性的な搾取」は、「対等性や安心を裏切る」ことが、被害者に「利用されている・物化されている」という恐怖をうみ、「自我や自立を支える、自分の身体や価値=自分のものである精神的空間」が恐怖で蹂躙されるという、「心的外傷」をつくるわけです。

しかし近親姦は極端な事象で、日常的に「自立を阻害」された子どもにも、同じような「深い対人不信」から出た「他者操作」をベースとした、「自己愛構造体の病理」症状がおきるわけです。

直感的過ぎる例ですが、先天的に重度な心身障害をもった思春期の女の子との付き合いで、介護者が抱上げて車椅子に乗せるような身体接触の場面で、彼女たちは、介護者の接触に「性的な意図」がはいっているか、いないか」について、彼女たちは言葉にできませんが、状況を敏感に察知して、筋肉への力の入れ方で反応します。

で、「人類共有の近親姦タブー」も、子どもの夜毎との異様な言動に、悪霊払いを依頼されたインディアン部落の占い師でも見抜ける程度での、「ジコチューな衝動実現を優先した、過剰な投影同一視の禁止」だったのではないでしょうか。

アメリカの社会学者パーソンズの、イノセント・タブーの説明のキーワードである「社会性の重視」は、結果としてヤング・ホームレスを生んだわけです。
一方、社会人になってもパラサイト・シングルとかいって、「自立」に強い価値観をおいてこなかった日本社会は、「学生気分」から「企業人」への軟着陸がむずかしい、100万人の「引きこもり」を生んだということでしょう。
*「引きこもり」問題については、この角度からも、今後、考えてみます。

************

ところで、

民間の民俗学者・赤松啓介は、戦争直後まで地方に残存した「夜這い民俗」について、「地域社会」内での「近親姦もふくめた、性的にルーズな社会」を、思い出話特有のノンキさで論述しています。
自慢の武勇伝は多少値引きしたとして、その遺制は、戦後すぐの時代に子ども時代をすごしたわたしも、多少は見聞きしています。
ただ赤松の思い出話には、「虐待」的側面については、ほとんど出てきません。
貧困や病気や戦争といった、20世紀前半までの過酷な時代的条件が、「心的外傷への社会的注目」をおおいかくしていた というのが実際なのでしょう。

一方、太宰治は、少年期の経験を、女中や下男から「哀しい事を教えられ、犯されていました」と、『人間失格』(1948年)のなかで、簡略に書き残しています。
ウチの死んだ親父や叔父やお袋の、「女中ッ子(昭和初期までのブルジュワ階層にあった乳母や女中に育てられた子ども)」に固有の、「強い投影同一視に親和性をもつ性格構造」といった問題は、夏目漱石の『坊ちゃん』の、乳母と共依存関係にあった主人公と作家のうつ病構造の関係とともに、日本近代の子育て環境の深部として研究される必要があります。

おもしろいことに、赤松に「性とやくざと天皇」を対象としないと批判された民俗学者・柳田国男が、日本人の子育てに関しては、子育ては「地域の相互扶助ゆえに、家族が子供を育てる伝統がない」という意味の指摘を残しています。

この柳田の確信の背景が見えないのですが、「日本人は家庭内は投影同一視の制御゙がルーズで、地域の客観性が、子育て上の危険を補償した」と、考えてよいのでしょうか。
例えば、ワタシが子どものころ周囲で目にした、「酒に酔った親に叱られて、フラフラと家出の真似ごとをした子どもを、顔見知りの近所の小母さんが、ワビをいれながら、家に連れ帰ってくれる」といったような、下町長屋の光景でしょうか?

いずれにせよこの柳田の指摘をもって、「家庭が大切」と言えば言うほど、「家庭を閉域化し、少子化を促進し、児童虐待を増やすだけだ」と、今でも考える評論家もいるくらいです。

そして今、多くの精神分析医が、子どもの精神的混乱を招く舞台として、「家庭」を「悪の温床」とみなしています。

*****

2年ほど前の

経験なのですが、関西の中2年生の少女集団が、一流銀行に勤める父親の部下から、写真をネタに金をせびる行為に、たまたま遭遇しました。

彼女たちは、昼間、偶然、間違えて私の携帯に電話してきて、ワタシに接触しました。
1000km以上も離れた距離を置きながら、いきなり「金出せ! 金出せ!」の幼い女の子の恐喝声が、印象的でした。

遠い仙台にいたわたしから、事態の通報を受けた、家にいた母親と学校の教頭は、「こいつら、デキてるのか?」と思うほど、30分程度の短時間で足並をみそろえてみせて、恐喝罪にならないように子どもに知恵をつけたり、学校外のことなので「関係ない」という体制を、整えてました。
ワタシの直感では、「見事に冷静で、慣れてるなあ」という、感じでした。
その夜、念のため父親に電話して、子どもたちから聞き出した本来の電話番号を伝えた結果、それが彼の部下の番号であったことが、わかったわけです。

その後、その家族からも学校からも、音信はありません。

こうなると、児童ポルノ犯罪の現状は、NHKや大人が考える世界とは違う、「子どもをまきこんだ児童ポルノ芸能プロダクション」?の雰囲気ができている気配があります。

ある地方都市に棲む、妻子ある中年男性からの報告ですが、彼は特に女子中高生に親和性が高いらしく、かつての「夜這い社会」かと思われるような、幼稚な性的好奇心の世界が展開している例を話してくれました。

アメリカでは、女系家族の中のったったひとりの男の子として、複数の叔母・従姉妹・姉妹から性的虐待を受けた男性が、成人後、地方都市で普通の平凡な社会人生活をいとなみながら、一方でヴァンパイアとして、数十年で数万人に及ぶ女性に、性的イタズラをしていた例があります。

もちろん直接的にも間接的にも、大人のジコチューが、健全な子どもの性幻想の成長を阻害しているのは確かですが、一方、子どもを単純に「被害者」とだけ、くくれない事情も、現れているということです。

いずれにせよ、単純所持者をワナにかけてまで検挙する前に、こうした「衝動を現実化させやすい人格」や、あえて書きますが「サブカルチャーとしてのロリコンマンガ」の系譜や、その業界の、実態調査も必要でしょう。

********

で、改正論者への批判点は、

番組を見たあとも、残念ながら変わりません。

被害者を、どう支援するかも考えないで、十把ひとからげで、結果だけを隠蔽しようという「改革的」政治家や宗教家に、犠牲者は利用されてるだけでは、かわいそう。
2次的虐待のひとつです。

未熟なカウンセラー(エセ教祖と同じで、「確信犯」であることが多いです)のエジキになると、数十年を犠牲にします。
そうした痛みによりそった、被害者支援をする体制の構築は、あるのかしら?
聞いたこと、ないなあ。


戦前の「イエ」は、国民皆兵・徴兵制の生産拠点とされ、戦後民主主義国家の「家庭・家族」は、「企業戦士の銃後」とされました。
その結果、蔓延したのが、「商業売春とポルノ産業と、家庭内での濃密な投影同一視ドラマ」でした。
そして今、新自由主義市場経済政策に追い詰められた正社員・名ばかり管理職の、「過労死と、精神障害」が増えています。

こう見てくると、児童ポルノは、利用者も被害者の子どもも、柳田国男が指摘した「日本の地域での子育て」体制を失った、国策のひとつの結末ともいえます。

個人の利益を保護するためであるとして、国家が個人の生活に干渉し、あるいはその自由・権利に制限を加えることを正当化するパターナリズム(paternalism)には、それなりの説得力が必要です。

今のように、論点をヒステリックにズラシながらの「臭いものにフタ」政策は、政策ヴィジョンの喪失を示していることにもなります。

年間2万3千人の子どもが、ポルノや売春組織に誘拐されるという、世界一のポルノ超大国アメリカの劣悪な犯罪事情とは事情が違うわけで、「おとり捜査」も「ワナ捜査」もできないはずの日本では、どこまで実効性があるのか不明な「児童ポルノ単純所持禁止」は、強引な禁煙運動と同じで、新保守主義の「国民教育」の一環として、「他国の戦争に支援協力させたり」「石油や食糧の高騰に耐えさせたり」と」という、「次の国民統制への布石」なのでしょうか?


新自由主義市場主義が考える「消費単位としての家庭」には、「子ども養育力の養成」という要素は、手間がかかりすぎて、採算が合わないということかしら?
で、徒花が狂い咲いたら、摘み取って、捨てれば良いということですね。

生産性と消費力に欠ける「後期高齢者と子どもと地方」は、「切捨て」が「構造改革」の正体なんですね。

************

先週号では

投影同一視の例を集めて報告するとか、予告しましたが、ちょっと寄り道してしまいましたので、またまた先送りにしますm(__)m

精神分析医ではないので、「病的な投影同一視」の具体例や、その病度の深度が、必ずしも測れません。
むしろ今回のNHKの放送などを材料にした方が、わかりやすいかと思って、今回はあえて寄り道しました。

で、一般的には、例えばTA(交流分析)(TA(交流分析)ノート)でいう「心理ゲーム」などは、投影同一視が働いて自他が混同することが多いようです。
で、そこからの脱却には、一般意味論(一般意味論ノート)的な「抽象化のレベルの違い」の掘り下げが、有効でしょう。

ただこれを使いこなすには、自転車の運転ぐらいの練習が必要になりますし、ハマッってしまったら、岡目八目で、他人の目というのも有効になりますので、ヘタなカウンセラーよりも、手近かなヒトとのお茶のみ話も、大切なんです。

*************
  1. 2008/05/26(月) 00:00:00|
  2. 感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

自己愛構造体と投影同一視について

児童ポルノ禁止法改正案への

まず最近のわたくしの反対論ですが、かなり分散的でアイマイな展開があるので、ここでまとめておきます。
*手元にフランスの近世から現代にかけての、性犯罪の歴史をまとめたテキストがあるので、これを勉強した成果から書きます。

まず現代の性犯罪の犯罪性は、「個人の肉体的・精神的一体性への侵害」という、「精神的な自尊への侵害」と捉えられます。
当然ですが、これはもともとあった性犯罪の規定に、長い価値観の変遷を通じて形成されてきた概念です。

近世までの、食糧難や死亡率の高さといった、「人知を越えた永続的な災難の組み合わせ」が持続した時代と社会では、一般的に暴力行為や肉体的な危機は当たり前のことで、前近代のフランスの裁判記録でも、むしろ意図的な社会秩序への犯罪である「街道での盗み」の方が重罪でした。

こうした暴力性が社会を支配した時代のフランスでの「強姦」というのは、基本的には「キリスト教的な道徳への違反行為」という捉え方で、「姦淫の罪・不義・ソドミー・獣姦」と同じ範疇にはいる、「風紀を乱す破廉恥罪」であって、「不法な傷害というより、不法な快楽」でした。
したがって「強いられた」という付帯条項はついても「猥褻行為」であるために、「淫行と神への罪」に関心がむいて、「被害者の妥協」も、沈黙のうちに非難されたわけです。
そこで、獣姦された動物が殺され、ソドミーでは被害者も罰せられたわけで、幼児強姦ですら、加害者側には「暴力をふるっている」という意識が欠けているのが特徴で、ある事件の加害者は、わずか10歳の少女から「誘惑された」との主張を平気で行い、さらに被害者は周囲からの「堕落」の烙印や危惧に苦しむという状態でした。

しかし19世紀末、精神医学の発達とともに、「個人の自由意志」や「精神的的暴力」が関心にのぼり、社会的にも「説明のつかない子どもの衰弱」や「寄宿舎の診察室での痕跡」が、問題視されはじめます。
そして性犯罪でも、「大人への強姦と子どもへの強姦の違い」「責任能力」「個々の性的倒錯の違い」といった、加害者側の「個人の責任における暴力」が焦点になり、「強姦者の人格」が研究され始めます。

ただそれがすぐに被害者の人権擁護につながったわけではなく、実際フランスでも成人女性への性犯罪の裁判で、強姦による心的外傷傷害が、「自我や自立を支える、自分の身体や価値=自分のものである精神的空間」への侵害であるとともに、「個人の価値・自己実現・個性の尊重」を大切にしている「共同体への裏切り」と認められたのは、1970年代になってからです。
なおこの時期の裁判から、「女性がNoといったら、Noである」という、「暴力と不同意の境界」も明確になったことから、やがて「性暴力が二人の主体の対決」というひとつの常識をうみ、やがて「対決力が無い子どもへの性犯罪への厳罰化」や、男女間の平等が推進され、「夫による妻への強姦も犯罪」という論理にひろがったのでした。

こうした流れに、フェニミズム運動が果たした役割は大きかったことは確かで、さらに21世紀になって、男女間の平等意識の普及とともに、性犯罪やDVが、「魂の殺人」として、被害者がこうむった「長期間にわたる精神的影響」や「心的外傷性傷害」「内的苦痛」が、重視されるようになります。

こうした流れのなかで、20世紀後半を経て暴力が社会不安の正面から後退して、21世紀にはいり、子どもにたいする性的暴力が、「もっとも重大な暴力」として、注目されることになります。
その「重大性」というのは、親や権力者の伝統的な権威が失われた現代にあって、子どもは「無垢と可能性の理想を投影された存在」として、絶対的なものとして位置づけられたことによります。
それゆへに、子どもへの性犯罪は、「もっとも重大な」という言葉がつくようになった、というのです。

さて、05月11日号では
わたくしは、ポルノが青少年に与える影響として「小児性愛やレイプなどの性犯罪者は、ポルノを見ている頻度が、非犯罪者より「少ない」という調査結果が、30年以上前から出ていますが、あい変わらず世間では、「青少年への有害図書」には過敏な反応をしています。
お医者さんゴッコや自慰に代表される子どもの健全な性意識の発達と、性を忌まわしいものとして禁じられたことで、過剰な性欲望を膨らませた性犯罪者の違いすらも、大人たちは分かってない」と断定することで、「だから過剰な反ポルノ政策は、むしろ大人たちの密かな変態性欲を覆い隠した、「子どもへの過剰支配」に根ざした、子どもの「健全な性的関心の発育」を阻害する「組織的陰謀」以外の、なにものでもない」とまで、言い切っています。

弁解しますが、これは、従来、あまりにも子どもの人権を阻害する親やロリコン教師を見すぎたために、こうした政策への意図にたいして、先鋭的すぎた展開をした嫌いがあります。
*こうした展開に、自分自身の被虐待体験が影響していないとはいえませんが、その点についての詳細は、かなり特殊でディープな情報になりますので、今はここでは省略しますm(__)m

いずれにせよ、「親や権力者の権威に代わって、子どもの存在を理想化」するという、フランス固有らしい幻想性には、百歩譲ったとしても、「無防備な存在への精神的な侵略」を重視しようとする点では、大いに賛同するものですので、「子どもの人権を守る」ことに、異論はないのです。

例えば、現実問題として、今、日本で問題になっている児童ポルノは、その商品形成過程で、「子どもの人権侵害」が起きていることは、まちがいないことです。
また社会全体でも、従来の狭い共同体意識が崩壊したことにともない、日常感覚上でも規制や権威や責任といった概念が後退して、「幻想から行為への移行」や「衝動の実現」に対する敷居が、低くなっている傾向があることも認めます。

ただ実際の児童ポルノ法改正が、「無防備な子どもへの精神的な侵略」に、具体的に焦点があっているかどうかは、その本来の改正趣旨すら見えてこないし、特に、自民党の森山眞弓や野田聖子、高市早苗や公明党の丸谷佳織、松あきらなどの女性議員らは、「児童ポルノの単純所持の違法化」や「漫画・アニメ・ゲームの規制」に積極的な態度を見せており、こうした児童ポルノ禁止法を代表的に推し進め、更なる規制を目指している中心人物の主張に絞れば、05月11日号での私見は、修整の必要はないということになります。

それとも彼女たちのネライは、世界最大のポルノ消費国であるアメリカでの、「単純所持禁止法」によるFBIの「オトリ捜査どころか罠捜査による検挙」を、日本でも実現したいということでしょうか?
彼女たちのネライがそこにあるなら、「支配された幼児体験」から派生した「世代間の虐待の伝播」を疑わざるをえません。

SMゴッコしたいなら、せめてトラ退治のお姫さまみたいに、国民を巻き込まないでほしいなあ。

まして、同様の内容をを自民党に近い「統一教会」が従来から主張していることや、日本の強姦罪には男性被害がはいっていないことや、ほとんど公表されることのない刑務所内の性的虐待や、従軍慰安婦問題では日本政府の反省が、国際的にクスブリ続けていることなどは、児童ポルノ法の改正を主張している与党が、「性的人権」について、どこまで「先進国的な理解」をしているのかが、はなはだ疑問になるわけです。

しかもこうした客観性を欠いたとしか言いようの無い狂信的主張が、簡単に通用してしまう社会は、免疫力低下の状況に左右されて、いつでも体内ウィルスが引き金になって集団暴走を引き起こす危険を、内包することになります。
*先週日曜日から、ワタシは帯状疱疹を発症しまして、今がピークなんですが、この痛みは半端でないです(泣)

で、例えば、1991~95年にかけて旧ユーゴスラビア紛争では、アメリカのCM会社をつかったエスニック・クレンジング(民族浄化政策)が、「敵を辱め、敵を非人間化するために、最初の犯罪は敵が犯した」と告発することで、「全員の価値観の逆転と道徳性の崩壊に殺到する集団的狂気」を引き起こした結果としての「セルビア人の集団強姦」が起きてますが、これは現代社会でも「残酷さを政治に利用する集団憎悪の暴走」が、なくなっていないという証左です。

そうした傾向が、日本でもまったく心配ないといえないことは、最近の少年犯罪への「犯人に反省が見られない」みたいな、2チャンネルばりの報復主義的情動世論を、マスコミも政治家も、ほとんど容認・野放しにしていることからもわかります。
ましてその感情的報復主義への放任政策が、「国民感情が求めるから」と死刑を廃止しないという理屈と同じで、粗雑な感情を「票集め」に利用する世論操作であるなら、いよいよ犯罪的な愚民化政策でしょう。
大企業の資本を使って、朝から晩までエヘラエヘラのバカバカしいお笑いをタダで垂れ流すTV環境が、イジメ環境に底辺を基底された幻想共同体をつくり、そこでは声のでかい者が「何を言っても、自由」とかで、「信念と称する狂信」を「垂れ流す自由」がはびこることで、結局、かえって窮屈な環境をうみだすことになるわけです。

「地雷原」と呼ばれる、イジメがはびこるガッコの教室で日々おきていることは、粗雑なタレントを司会とするTVのバラエティー・ショーを祭壇とする国民的「幻想共同体」と、同じ構造ということなんですね。

それにしても、学校での教師の体罰やロリコン・セクハラは放置しながら、この単純所持禁止に法改正後には、幼児の行水の家族アルバム所持が、「異常者・不審者」あつかいされて検挙されるなどという社会は、異様としかいいようがないです。
これが新保守主義の、「国民教育」のあり方なんでしょうか?

食糧安全基準の監視チェック体制の強化とか、若い母親たちの環境整備とか、子どもの権利条約の宣伝普及とか、子ども虐待を「国家的な問題」として取り上げて議論を積み上げるとか、「学ぶ力を子どもにつけるための国民会議」とか、政治家が仕掛けるべきことは、まだまだほかにもありそうと思うけどな。

で、ここに至って
やっと本題にはいるわけですが(笑)、なぜ今、わたしが、「投影同一視」に注目するかというと、イジメや軽佻浮薄な世論、特にそうした突出した形の小児性虐待には、この投影同一視が、重要な働きをしていると考えられるからです。

例えば、小児性犯罪の動機について、19世紀には「反社会的な人間や精神障害者等」という報告がされ、一部の異常な状態にある人間のみとされていた小児性犯罪の犯人像が、20世紀には「社会から阻害され、ストレスに押しつぶされた人間」「単に性格の弱い人間」「若さを取り戻そうとした孤独な人間」「未熟で未発達な人間」「夫婦関係がうまくいかずその代償とした人間」というように心理的な要因に目が向けられました。
*FBIのチャイルド・マレスター<児童性虐待者>という概念は、犯人像プロファイルの立場から、基本的にこのスタンスで分類されていて、この映画的なステレオタイフな分類は、現実の犯人像からは離れているとの批判が出ています。
しかし21世紀になると、吸血鬼症候群(ヴァンパイア・シンドーム)<=性的虐待を受けた人間の一部が性的虐待を起こすケース>が、小児性虐待の中核的存在として注目されはじめます。
で、このタイプの犯行には、この投影同一視のメカニズムが働くと考えられるのです。

もちろん膨大な犯罪事例の動機が、すべてこの分類で説明がつくわけもなく、例えばフェミニスト的解釈では、性的虐待は性欲ではなく「支配欲」が動機であり、その原因は家父長制にあるとして、この説は現時点で非常に有力視されています。
*私見では、この説明は、「被害者に責任が無い」という点を明確にした点で、画期的な功績がありますが、一方、こうした前近代の社会が作った人格が、21世紀の先進国の特に都市部の青年に、「まだ現在も残っている」という説明は、それぞれの国情もあるでしょうが、動機の解説としては形式論的すぎます。

さらに別の仮説では、人格形成期の初期における「矛盾した愛情関係(つまりトラウマ体験)」が原因というものがあります。
この理論によると、性犯罪を行ない「親密さを強要」するのは、「損なわれた自我」の根源を取り戻し、「人との関係を回復」しようとする試みの一端とされます。
人と繋がっている感覚により、自意識が攻撃されているために起こる「不安を、和らげるための犯行」とされ、自分の自信を損なわないために独断的になり、「被害者の苦痛を認識しない」点に、注目があてられています。
*これは、あとで述べる自己愛構造体の、ひとつの病理的表れとして説明できます。
*程度にもよりますが、相手が見えない性愛しかできないオジサン・オバサンは、世間にはいくらでもいるわけで、「強要」ではないとはいえ、このタイプの不器用さが、みな犯罪者レベルにされては、ちと気の毒になります(笑)

また、別の仮説では自分自身の孤独や憂鬱といった「ネガティブな心の状態を打ち消すため」に、「常軌を逸した夢想」を行う点に着目していて、満たされない欲求を補正するものとされています。
*自己愛構造体におきる、病的な解離症状でしょう。
*なお小児性犯罪的傾向が強い人の特徴として、性を最も重要な欲求とみなしている点があり、それを満たすためには、彼らは経歴も夫婦生活も、子どもたちや相手の幸福すらも危険にさらします。
痴漢やセクハラ行為などで、それまでの道徳性の高い地位を棒にふる大学教授やエリート校長や牧師や介護士などが、数多いるのは、こうした事情があるからです。

こうして見てくると、性的虐待を受けた人間の一部が性的虐待を起こす吸血鬼症候群で起きる投影同一視の心理メカニズムが、それ以前の仮説(ちょっとした時代的な制約から、こうした概念が使えなかった場合があるとしても、、、)をも、包括して説明できると考えられることになります。

つまり、このヴァンパイア・シンドロームでは、投影同一化の働きにより、「無力な自分」と「加害者の自分」とのスプリティング(自己の分割)を起こし、自分を虐待した「強い加害者」を無意識に理想化して、加害者となることで「強い自分=主体性」を取り戻そうとする一方、被害者に虐待された「弱い自分」を重ね合わせて、「痛みの共有」という、「一方的かつ主観的な共感」に浸り、これにより「慰め」を得ようとしていると言われています。

ワタシにいわせると、先に見たいろいろな仮説は、ある特定の現象面に注目しているだけで、全体の心理機制と犯行の実行に踏み切らせる契機は、個々のきっかけはいろいろあるとしても、この「自己愛構造体の病理部分」で活性化する「投影同一視」と「自他の関係のアイマイ化」で、大枠は説明できると考えられるわけです。

ただ強調しておきたいのは、すべての性虐待の被害経験者が、虐待を繰り返すわけではなく、いくつかの調査でも、加害率は20%~50%の幅があり、それだけに責任能力の教育や早期発見・治療のためにも、小児性犯罪の加害者・被害者の実態研究が急がれるわけです。
今、解っている範囲では、「幼児期の少ない監督」「女性による虐待」「家庭内の暴力」といった、広い意味でのネグレットや日常生活的な虐待の継続が、ヴァンパイアを育てる環境にあることが知られています。

一方、幼児期の性虐待を体験してない小児性犯罪者もいるわけで、厳罰化への世論の盛り上がりはあっても、そうした犯人像たちの動機群の詳細は、日本ではほとんど研究されていません。
とりわけ、女性のチャイルド・マレスター(=小児性犯罪者)の事例研究が、ほとんど日本では存在しないことは、そうした調査研究は、政治的な「日本の家族神聖主義」に押しつぶされいるのかと、思えるほどです。

また八つ当たり論になりますが、
少なくとも、文部科学省の教師養成方針には学級経営方すらなく、人間科学の成果を反映した指導法がほとんど無いことは確かで、小児性犯罪者や少年犯罪でも、そうした人間科学的な病理的研究の遅れが、報復主義的世論をつくっているとも、いえるわけです。

で、またまたこれですべてを説明するつもりはないですが、高度大量消費社会の現代では、子どもだけでなく、大人までも、この投影同一視で動いている風潮があって、官僚主義や学歴社会やマスコミ権威主義までも、この流れで説明できるくらいです。


まあこうした説明というのは、エセ信仰や妄想と同じで、こじつければどこにでも貼り付くわけで、その仮説の正しさは、実際には、その説明から得た支点に働きかけて、例えば「引きこもりが、元気になる」みたいな成果が出れば、「正しい」ということになるわけです。
もちろんそれが簡単に出来れば、政治家や企業家たちが、門前に市をなすでしょう(笑)

まあ、そんな特効薬はまだ無いわけで、わたしに出来ることは、当面、引きこもりや今時の学生気質の説明や、そうした世界でのイジメ現象や、性犯罪を引き起こした「育ち環境」に敷衍するメモを、書き続ける程度です。
*一部で、ほんの少し成果が出ていますが、基本は「安心できる関係の継続」です。
*最近、斉藤環が、『思春期ポストモダン』(幻冬舎新書)で、「病因論的ドライブ」なる観点から、「安心できる関係の維持」のなかでの、家族療法的な「ゲシュタルトの変換」に似た、家庭でも努力次第では実現可能な方法を提唱しています。

ただ、子どもたちに
そうした「生きづらい」精神環境を展開させているのは、大人の社会でして。
だから、大人の社会にはびこる投影同一視エネルギーの、さまざまな展開面にも、当然、メスを入れておく必要があると思うわけです。

一度にはムリなので、少し時間をかけて、分析を進めていきたいと思います。

ふり返ってみれば、いままで「ちょっと変だべ!」と、直感で指摘してきたことは、ある意味で、みなこうしたファントムやゴーストだった気がします。

ゴリラは、生まれて1年は、母親が子どもを肌身離さず、母子一体化して育てるとか。
逆に人間は、生まれ落ちたときから、周囲の手から手に渡って、社会の中で育ちます。

それが、人間の自我と知恵の源泉ですが、一方、同時に、不安にかられる自我を防衛するために、「幻想」という防衛機制がスリコマレるわけです。

「祖国のために」といって、爆弾を抱えて敵戦艦に飛び込むのも、「アメリカ帝国主義を倒せ」と、ジェット機を高層ビルにぶつけるのも、「改革無くして、成長なし!」とかいう絶叫の意味も確かめずに熱狂するのも、「生きる目的がわからない」と手首を切るのも、「失われた愛を求めて」教え子の下着を引き下ろす小学校の教師も、この「幻想」の働きがさせるわけです。
*この部分の記述に不快感や吐き気を覚える方は、幼児期の被虐待体験があるかもです。こうしたチェック方法も可能ではないかと、あえて過激に書いてみました。

また屁理屈こねてるみたいに思うでしょうが、案外、本人は、本気で、心配してます。
いろいろあって、そろそろ自分なりに、いろいろ「マトメなくちゃ」とも思ってますので、その一環と考えてください。

次回の予習として、
「投影同一視」という、精神的な防衛機制の代表の基本的な説明をしておきます。

われわれは、この機制を無意識に使っていることが多いので、「今、そうなってる」ということに気づくには、結構、練習が必要です。
次回、「これがそうです」という例をいくつか、拾い集めようと思いますが、その前に少し自分でも、練習しておいてください。
*ワタシは精神分析医ではなく、武器は「たくさん子どもを見ている」という経験だけの素人ですから、専門家から見たら間違えた説明があるかもですが、素人にこうした説明をさせなくてはいけないというのも、「今どきの専門家の怠慢」と考えるワタシなので、そこんところは よろしくです♪(笑)

で、まず「投影」ですが、「自分の希望・願望・不安・恐れを、相手の行動の上になげかけて見ること」で、自己が抱いている他人に対しての不都合な感情(例えば、自分が「相手をウザイ・キライ」と思う)を、相手が自分に対して「強い敵意をいだいている」と思うこと です。

一方、「同一視」というのは、「相手の行動のなかに、望ましい自分・ありたくない自分の姿を見ること」です。
自分と相手が、一体化してしまいます。

どちらも、「自分と相手」との区別がアイマイになる点が特徴ですが、重心の違いは、投影が「自分側の願望や恐れ」で、同一視は「相手の言動」が、引き金になっています。

例えば、小学4年生の子が、100点の答案をもって帰ってきたとします。
父親は、「さすが、オレの子だ!」とホクホクうれしそうでした。
数日後、机の中から隠してあった0点に近い答案が、ボロボロと机の中から出てきました。
父親は、「これは、お前の子だからだ!」と、女房を怒鳴りつけてしまいます。

この父親は、自分に都合の良い「子どもの良い面」とは、見事に同一化して、都合が悪くなると「自分から追い出し」てます。
この瞬間、この父親には、子どもが、子ども独自の生活のなかで、いろいろな課題を抱えながら生きていることが、見えなくなっています。

で、ここから、危険地帯までは、「歩いて3分」です。
ここで、この父親なり、父に脅された母親が、「なぜ?」と考えれば「過保護沼」、「ウソつくなんて! もう知らないッ!」となれば「放置崖」への道しるべです。

もちろん、子どもが乳幼児の時期には、母子間の強い一体化によって、子どもはその生存と安全が守られます。
で、この現象は親側だけでなく、子どももまた、2,3歳児ごろまでは、親との同化や投影によって自我の基礎をつくり、やがて親以外の周囲の大人や仲間といった対象に、投影同一化して、社会化していきます。

もしここで母親が極端に低い自尊心や不安の持ち主だと、この「自分を飲み込まれる一体化」に怯えて、育児ノイロゼーや虐待がおこります。
そして子どもが、2,3歳になって自己主張をするようになると、こうした母親は、さっきの恐怖をベースに、投影同一視をフル稼働して、子どもを支配したがります。

健康な母親ですと、ここで子どもの主体性に気づいて、子どもの意欲を支援する、やや客観的な位置に退けますが、自分の幼児期に欲求不満を積み残している親だと、投影同一視が過剰に働いて、自他がアイマイになるために、自分の中の不安に駆られて、相手の中の自分とは違う部分への、「強い支配願望」が発動するわけです。

もちろん親本人は、子どもを「つぶそう」とは思っていません。
むしろ「あふれる愛情(欠けた自己愛なんですが)」にわが身をもてあまし、力任せに子どもを抱きしめてしまうのです。
ただ気が付いたら、子どもは青色吐息だったというわけです。

カウンセラーや、教師や、医者や、牧師や、看護士といった、他人に奉仕する仕事には、こうした「欠けた自己愛」族が集まりやすく、擁護施設や学校や教会では、虐待や小児性犯罪が起こりやすくなります。

対策は、自分の「つもり」と「思い込み」をチェックして、余計な責任をとらずに、子どもを観察することなのです。

ところで、
父親もそうでしたが、この子にも起きているのがスクリプト(分割)です。
「100点を取った良い子」には「機嫌の良いやさしい親」が対応して、「0点の悪い子」には「機嫌が悪い怖い親」が対応しています。
ですから、「良い子」でいたいこの子は、自分が「悪い子」に豹変するネタである「0点の答案」を隠していたのではなくて、「見せたくなかった」だけで、「0点の答案」の存在すら忘れていた可能性があります。

で、この分割状態が、「解離」なのですが、その前に、解離の舞台になる「自己愛構造体」について、説明しておきます。


「自己愛構造体」について
例えば、少年犯罪への厳罰主義的傾向や、典型的には2チャンネルなどでの「炎上」エネルギーでみかける、「痛みを感じる加害者」より、「痛みを感じない善人」の、万能感的正義感からの短絡的な怒りの表出は、「抑うつ態勢」以前の、「妄想ー分裂(=分割)態勢」の心理機制です。
特にこうした世界での「匿名性」というところが、傷つくことを怖がる、病理的「自己愛構造体(俗にいうナルシズム=プライドとして表現されることもありますけど)」の「自己防衛」です。

この関係を、簡略に図にすると、

             『自己愛構造体』

             /        \

 「妄想ー分裂(分割)態勢」 ← →  「抑うつ態勢」
   (幼児的・病理的)          (成人・健康的)

という仕組みになります。

「妄想ー分裂態勢」の典型は、「実母のやさしさ」を極端に理想化する一方、実母のなかの「自分に不快な部分」を「分割」して、その材料から継母や魔女を妄想・捏造して、そこに不快の原因をすべて仮託してしまう、シンデレラや白雪姫のスタンスです。
で、「冷酷な継母や魔女」には、「正義の戦士」は、どのような仕打ちをしてもかまいません。

05月03日号で指摘した、小学1年生レベルの子どもに「母が魔女に見える瞬間」が、この状態です。
シンデレラやこの子たちにとっては、TVの水戸黄門に出てくる悪徳商人や悪代官や、多分、妻子もあるだろう木っ端役人の手下も、「問答無用」で切捨てられる相手です。

さっき出てきた小4のこの父親が、ストレスを溜め込んで憎悪を妻に向けて、やがてDVに発達する下地は、こうした心理機制がベースにあるでしょう。
もちろんこれだけでは、DVはおきないはずですが、父親の中に被虐待体験からの「隠された怒り」があり、妻側に被虐待が育てた「弱い自分・イジメられっ子」が快適ゾーンにあれば、かなり発症率が高くなるはずです。

この図の右端の「抑うつ態勢」はというと、左端の「妄想ー分裂態勢」の破壊性から卒業したスタンスで、最も成熟した形は、「思いやりを持った慈悲の心」です。
一般には、「思い焦がれ・葛藤・孤独感・絶望感・罪業感・悲哀・哀悼・償い・修復」といった感情に代表され、その「抑うつ感情」に圧倒されないで(圧倒されると「うつ病」です)現実を吟味できるスタンスで、内的全体像を確立していく、「大人」への道のりです。
つまり「良い自己」のもとで、「破壊性の制御」が可能になった状態です。

しかし実際、われわれの一生では、タイミングや場所や条件によって、「妄想ー分裂(分割)態勢」←→「抑うつ態勢」 の間をさまよいます。
「ガマン」というと、トキオ・ディズニーで列にならぶときぐらいしか体験できない現代日本では、一瞬ごとに欲望を刺激する巨大商業資本が見せつけるCM幻想にさらされて、「抑うつ態勢」への成長が阻害される構造があります。

少年犯罪に限らず、原始的暴力がむき出される事件が、燎原の火のように全国にひろがる背景には、「食べるものに事欠かない幸福」のなかでメルトダウンする、こうした「未来型不幸」が底辺にひろがっているからです。

で、「病的な自己愛構造体=妄想ー分裂態勢」というのは、「赤ん坊の指しゃぶり状態」です。
自分の外の対象への関心を欠いて、自分のなかで勝手に想像した内的対象への、情動の過度の投影同一化による、内的対象との関係に引きこもっている状態です。
「オタクの世界」が、そのまま病理的とはいえませんが、構造的に近いことは確かです。
*近い将来、日本は、「オタク宰相」を選びかねませんが、小泉や安倍元総理といった「隠れオタク」よりも、ハッキリ表明してくれているほうが、まだ扱い良いかもしれません(笑)

つまりこのスタンスは、いつも「だったら良いな」を夢みて、「現実」と「自分の妄想」との区別が、ついてない状態です。
「引きこもり」の若者を観察していると、多くがこの心理状態にいるようです。

この状態は、一見、だれでもよく経験するスタンスですが、「病的な自己愛構造体」の特徴は、
① 自分に愛と栄養を与えてくれる「良い対象」への依存を拒否します。
だから「自分がそのまま良い対象」になります。「引きこもり」の大多数が、治療拒否状態にあるのは、この機制が働いているからです。
② ①は、良い対象への羨望への防衛して、良い対象の働きを「取り込む」ことで、「自分の非現実な万能感」を維持します。
これが出来るということは、コピー才能にめぐまれた優秀な人材であることを意味してますが、被虐待体験があると、口うるさい親の子が、口うるさくなるように、虐待者の強さだけが、「非現実なイメージ」のまま取り込まれることもあります。
③ で、自己の「万能、全能」が続きますので、葛藤は起こりません。
「引きこもり」の場合は、これがときに数10年を超えるゲームやアルコールや過剰な性体験といった、「統合失調症的恍惚感」への「閉じこもり時間」を支えます。
④ 良い対象を自分が必要としていることに気付くことは、自分の無力や能力の限界に突き当たっ て、悲哀を体験することになります。
したがって③では、「抑うつ不安の否認」が起こります。しかも、自分も対象も一緒で、神のように万能となると、今まで対象の不快な部分にむけていた破壊的攻撃の悲惨さも否認され、むしろ破壊性は理想化されます。
⑤ で、破壊の罪悪感が否認されることで、破壊的攻撃性が肯定され、旧約聖書の破壊的な神のように、自己愛的で犯罪的なワガママが爆発します。
⑥ しかもこのスタンスでは、コントロールや不快の排出を目指した、過度な投影同一視が、活発化します。
⑦ 「抑うつ態勢」の不全症であるうつ病の兆候に近いですが、②や⑥が、周囲のアドバイスや治療的 介入を拒否しますので、厄介です。

しかもこのタイプの言動は、「自分の理想化と不快の排出」が優先されるので、相手の存在は、自分のジコチューな妄想に奉仕する「素材」にすぎません。
このスタンスが、モラルハラスメントの加害者の根底にあるために、犯罪的言動が彼らには平気でできるのです。

*ここだけを読んでも、小児性虐待者の過剰な「投影同一視」の働きによる心理機制が、かなり見えてくると思います。

実は、この部分の記述は、『事件簿』2001年06月11日号06月18日号06月25日号の記述をベースにしています。
最近の研究動向を知るためにYahooで検索したところ、「自己愛構造体」の具体的な展開事例は、父の最晩年と息子であるワタシの日々の、今、読み返しても、目の前のバケモノに正面から向かい合おうとする誠実さ以外なにもない(苦笑)、文章の難解さに苦悶がにじむ「介護死闘記録」以来、まとまったものが、まだ出てないようです(書籍は見てません)。
この7年近い空白には、いろいろ理由は考えれるでしょうが、ワタシ以前の小此木啓吾の社会病理への「自己愛論」の言及以来、こうした議論の展開が抽象的にも具体的にも少ないことは、学会で成果と認められないからだろうとの理由は想像できても、現実的な社会病理に対する、「ジャーナリストと専門家の怠慢」であると、あえて挑発しておきます。
100万人に達するという「引きこもり」を前にして、精神科医に知識啓発責任が無いとは、もはや言えないでしょう!
精神医療のメルトダウンに対しては、いろいろなところで野火がくすぶっていますが、「無神経なくせに、やることは悪徳商人ばりの、医者の病理的自己愛構造体」については、まわりに老人が増えたために材料には事欠きませんので、いずれ「ワタシも幼児的破壊性で参戦する」ことを予告しておきますね(笑)

爛れた気分=タヌキ寝入り

また長くなりましたが、ついでにもう少し、自己愛構造体の状況を解剖しておきます。

親の「投影同一視」にさらされた子どもに良く起きる現象が、タヌキ寝入りです。

まず「うれしい・怖い」の感情が、現実認知を汚染するのが「妄想」で、「かくあるべき」という価値観が、認知を汚濁するのは「偏見」です。
*この説明についてはTA(交流分析)ノートを見てください。

ですから、「だったらよいな」が自分で実現できず、また「かくあるべし」をたえず吹き込まれる環境(=過保護・過干渉)の子に、こうした幼稚さが強く残ります。

もっとも、人は生きていくうえで、自分への信頼というイリュージョン(幻想)が絶対必要になります。
しかし自己信頼が欠如した、心が凍えた子では、現実がファントム(おばけ)化します。
紀元前の中国・春秋戦国時代の杞の国に、「天が落ちてきたら逃げるところが無い」と心配した男がすでにいたそうですが、こうした心配は、実際にはこうした育ちの子どもには、マジに笑い事ではすまい問題なのです。

大人には言わないだけで、核爆発や温暖化やゴミ対策や地震などに、「死ぬほど怯えている子ども」は、中学生段階でも、かなりの数いるはずです。
この「恐怖」は、不登校児の「イジメられ恐怖」につながって、「イジメっ子」を誘発します。

ところで、子どもが悲惨な事件の犠牲になるたびに全国の学校では、地域ぐるみの警戒態勢が敷かれますが、「子どもを守るつもり」でいる正義感の強いヒマな老人や幼稚な大人の怯えに、感染する子どもの恐怖は、2次災害として考えておく必要があります。
自分たちは「良かれ」と思って流しているのでしょうが、電車の中の過剰親切な車内放送みたいな、警察と教育委員会が出す「不審者情報」なるものは、子どもの受け止め方への対策を考えておかないと、やたらひ弱な子どもの数をふやしかねません。

あるかなり優秀でいつも元気な中2の男の子なのですが、「いつ核爆発があるかわからないから、勉強なんかしないんだよ」と、つぶやいていたことを覚えています。

で、実際、子どものヤワな脳組織は、日夜絶え間ない過剰な刺激と緊張にさらされると、苦痛を回避する「タヌキ寝入り」現象をおこし、知識の吸収や整理ができなくなります。
これが、「解離」です。


この解離というのは、「自我を成立させている記憶、意識、運動、資格や触覚などの感覚が損なわれ、同一性、または環境の知覚といった、通常は統合されている機能が、正しく機能しなくなって、破綻している状態」であるることを意味します。

ただ、すべての解離が病的なわけではありませんで、
*高速道路を運転中、話をしながら車線を移動する能力
*空想にふける、ぼーっとする
*何かに集中し過ぎて、まわりに起こる出来事に気付かない
*ぼーっとしていて、時間の経過に気付かない
*考え事をしていて、話しかけられても気付かない
*白昼夢(侵入性の解離) 
などなどは、ごくふつうに、だれにでもおきている現象です。

少し病的な世界としては、
*破局体験の切り離し
戦争や災害体験などで、その危機的状況に自我が耐えられそうに無いとき、防衛手段として解離が起きる場合があります。阪神・淡路大震災の被災者の支援カウンセリング経験では、隠されていた性格的な構造が、被災の最中から解離を発生させていたケースに、数多く遭遇しました。
*ある種の感情のカタルシス的排泄
TVの水戸黄門の印籠への人気・2チャンネルなどでの、「炎上」・小泉元首相の国民的人気
*群れ感覚の増強
個人の自我をグループのアイデンティティーや個人を超えた被暗示性の世界などの中に埋没させる、サッカーなどの熱狂的なサポーターに代表されるファン心理や、ブランド指向・大企業製品への無批判な信頼・マスコミへの妄信・学歴信仰・権威主義 
といったことが、あげられます。

さらに病的な解離例としては
*殴られているのに痛みを感じない」(痛覚の解離)
*自分の身に起こっていることが、他人事のようにしか感じられない(離人感を伴う解離)
*行動した形跡があるのに記憶が無い(解離性健忘)
*まるで自分に起きていることが、夢のようでとても現実だとは思えない(現実感の喪失)
*気付けば知らない場所にいるが、どうやってここまで来たのか記憶が無い(解離性遁走) 
などなど です。

病的な解離までいかなくとも、幼児期から、相手をみない、過剰なしつけ教育や知的成果の強制を受けた子どもは、「幻想、空想、責任放棄」の世界に逃避癖をします。

そしてこの反応が習慣化した子が、思春期・青年期になると、その「凍結感情」を解除するために、「過剰な独裁体制への盲従や、周囲への激しい憎悪・攻撃、個性の蔑視・差別、過剰な性愛、危険なレースや麻薬への耽溺、犯罪」といった、「刹那的な刺激と興奮」に走ります。
おだやかな例でも、知能の高い大学生が卒業直前に退学したり、知的能力は十分なのに、目的もないまま社会的にブラブラしたりという、「幼稚な退行」エピソードが、その人生を飾ります。

で、こうした世間にはびこり、われわれに「理性への、反省のきっかけ」をつくってくれる、投影同一視の具体的な事例は、次回にまわしますm(__)m

ここのところ
少し長いモノが続いていますが、気楽な世の中批判にかこつけた、自分の両親の介護と死別経験からの、思いがけず長く続いたPTSD(心的外傷後ストレス障害)の整理が中心ですが、還暦もすぎて、最近、友人たちに重病発症が続いたり、自分もゴルフが下手になったりという体調面でとかで、自分もいよいよ老人になってきた意識もあって、老人性うつ病傾向からの「再生」への自己治療の試みと、受け止めておいてくださいm(__)m

だれでもよいのですが、近々またひとつ歳をとることでもあり、「それにしては、まだまだ元気ねえ」とかって、ワタシの自己愛構造体を応援してくださる声を、期待しているのですが、、、、、(爆)





  1. 2008/05/19(月) 00:00:00|
  2. 感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

子どもの憎悪の育て方

まず最近、心配なのは
わたしだけでないでしょうが、かつて日本で官僚と財界が仕掛けたバブル経済とおなじで、アメリカの銀行屋の小ざかしい知恵働きで、詐欺みたいに低所得階層をエジキにして、サブプライ問題をひきおこして、世界中に金融不安をばら撒いて、巨大資本が利ざやがかせげなくなると、石油・穀物に矛先を向けて、世界に物価高を巻き起しています。
もともと大量石油消費国のアメリカは、反アメリカ産油国に「自分たちの石油代金で、強い軍隊をつくらせたくない」と、中東の「悪玉征伐」に乗り出したはずなのに、この原油高で、かえって産油国を潤わせ、立場を強くしちゃいました。

石油は、1バベル200$の声もささやかれているとか。
要は、土地や住宅に代わる投資先を探してさまよう資金の、だぶつき量できまるのだろうから、専門家には、流れ込む数量は、ある程度の予想がつくはず。

さすがの軍事大国アメリカも、ロシアもふくむ世界中の産油国に、まさか銃を突きつけて、石油の増産を命令できるはずもなく。
ウハウハ儲けてるアメリカ国内石油資本が、まず第一に反対するはずだし。

すでに食糧危機が深刻化している国もあるわけで、そうしたツケを払わされる貧乏国から、世界的な規模での「米騒動」が起きるかも。

日本政府はとぼけてますが、どこまで国民はガマンを強いられるのか?
「欲しがりません、勝つまでは」とかいう、大東亜戦争中のキャンペーンが、また流行るのかも。

「子どもポルノを見ると、性犯罪者が増える」という、理屈にならない理屈からの児童ポルノ規制といい、警察・教育委員会がグルで流す、女子高生殺しも防げない「不審者情報」といい、国民を縛りつけておきたいだけの支配欲かと思っていたら、どうやら「ねらいは、米騒動予防策」なのかしら?
ちょっと恥ずかしい趣味を、「変質者・犯罪者」呼ばわりして狙い撃ちしてくるあたりは、戦時中の人種差別政策から学んだ、イジメ手法でしょう。

同じくイジメを受けてる、その日暮らしの貧乏老人としては、75歳を待たずに早く死にたくなちゃうけど、それでは、悪知恵やからの思う壺。

長生きなんぞ、したかあないけど、ワタシも言わなくては、「『国民の味方顔した』、夜郎自大なマスコミや政治家どもの正体は、死ぬまで暴き続けなくては!」って(爆)

【ニコニコ動画】【マイリス1万で】児童ポルノ単純所持違法化 阻止【アニメも】

子どもの中に
殺意と憎悪を育てたいなら、ろくに満足な食事も与えずに、抽象的で厳格な規律でしばりつけて、懲罰で殴る蹴るの虐待をすればよいわけです。
しかし常識的に考えても、これを日常的に絶え間なく維持するためには、教育者側によほどの覚悟か心の歪みがないと、教師側の精神がくたびれるはずです(笑)

いずれにせよその代表が、いわゆる「スパルタ教育」です。

ただスパルタは、、市民皆兵主義の1万人弱の兵力(家族を含めた総人口は約5万人)で、奴隷にした5倍近い先住民に農業生産を、2万人ほどの半奴隷に商業をになわせて、その奴隷労働の上に生活を組み立て、奴隷に囲まれながら日々を過ごして、日常的に奴隷を制圧、時に夜間に反乱制圧の殺戮隊を出したという苛烈な組織で、全盛期は100年しかもたなかった国です。
ですから、当時でさえ、周辺諸国や住民は、その武力に驚きはしても、どこも真似しようとは、していません。

で、子どもに耐久力と狡猾さを育てるために、まともな食事をも与えずに、奴隷から食事を盗ませたと伝えられるこのスパルタに、不登校や引きこもりがいたがどうかは伝わっていませんが、戦場から逃げ帰ったり、負傷に弱音をもらす兵士や、不倫などはあったようで、スパルタ流モラルと規律のテンション維持には、結構、苦労があったようです「ラコニア(スパルタを中心とする地方名)女たちの名言集」

今でも軍隊では
「精神的な消耗率」が激しいようで、ベトナム戦争後のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は有名ですが、世代を超えて次世代に心の歪みを伝えた例は、日本でもいろいろ見かけられます。

ことの性質上、あまり詳しくは書けないのですが、戦後保守政権の守護神で元大本営参謀・瀬*龍*の忠実な部下で、某国の外交顧問をしていた方から、孫の不登校で相談をうけたことがあります。
いかにも真面目一徹の方で、「真面目な嫁が苦しむ姿が、痛々しい。君は、真面目がいけないというが、真面目のどこが悪い?」」と涙ぐまれた彼の姿は、痛ましい限りだったことを、今もおぼえています。
この祖父世代が職業軍人ということになると、いちいち統計をとってもいませんので、乱暴な一般化はさけますが、ワタシの経験でも、かなりの数になります。
また、日本人ではありませんが、ある戦争で活躍した、外国軍の従軍牧師のお孫さんもいましたし、某非合法組織の高級幹部の、お孫さんもいました。

まあ、今どきは、「不登校」は、どこででも、だれにでも、起きる現象ですから、特別にその心の系譜をたどる調査もないようです。

ある学者にいわせると、「体罰」は、「しょっちゅう戦争があった時代の、子どもを兵士に育てるための教育の名残だろう」といってます。
しかし実際、体罰を使わなくても、厳格な規則と支配と圧力で、体罰以上に、子どもをイジケさせ、子どもに憎悪を埋め込むことは、いくらでもできます。

確かに祖父世代で強いストレスを経験している場合、孫世代まで、影響があるというのは、孫から逆算するわれわれからは、ひとつの常識になっています。

国連人権理事会が
対日作業部会をひらいて、死刑廃止と従軍慰安婦問題への誠実な対応を要求したとか。
「世論が求めるから」を理由に、政府もいつまでも、がんばれるかしら?
確かに「人権」についての、歴史的な考え方に違いはあるでしょうが、かつて子どもに重労働させていた社会も、止めようと思えば、止められたのですから、死刑だって、止めようと思えば、止められるはずです。

  1. 2008/05/11(日) 22:59:28|
  2. 雑感
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「心のノート」の結末 (2) こどもの日特集号(笑)

“先週からのつづきです”
こまごま裏づけを書くと、また長くなるので、直感的な記載になります。
*以下は、ワタシ自身の被養育歴や知見からの仮説で、もちろん「これで子どもの問題が、すべて説明できる」などと主張するつもりは、まったくありません。
ただ殺人などの凶悪事件を起こした青少年の養育暦をみていると、人格の構造としては、原理的には符合する部分が、かなりあると思ってます。

“まずひとつの例として”
子どもへの接し方=しつけ方として、親が「良いこと」には愛情を与え、「悪いこと」には厳しい愛情剥奪の姿勢で臨んだ場合、子どものなかに、「快と苦」の単純な二元論が残ることがあります。
つまり「快(愛情)を与える機嫌の良い親」には「良い子(従順な子)」が、一方、自分に「苦(愛情剥奪)を与える親」には「悪い子(逆らう子)」が、結びついています。

しかもこの「2人の自分」は、「苦痛」をキライますので、人格が2つに分割された様相を呈します。
悪いイタズラをしても、発覚するまで忘れてたり、親の前だけでは良い子だったり、点数の良くない答案を隠して、100点ばかりを親に見せる子も、本人は「ウソをついてる自覚」はなく、ただ「苦のタネになる、都合が悪いことは、忘れている」だけなのです。
しかも親自身が幼稚なためにおきる、過酷な環境や、過保護環境のなかでは、「快」の獲得も「苦」の回避も、自分の力で制御できないので、挑戦をおそれ、自分の手馴れた領域から、なかなか抜け出せません。
この現象は、人格を尊重された養育を受けられなかったり、家庭内暴力にさらされた子どもでは、特に深刻にスリコマレるようです。
実際、過保護に育った子の「意欲の欠落」を見ていると、過去に虐待があったのかと疑うほど、表面の反応が似ています。

ともに、「子どもらしい好奇心・意欲=人権」を阻害された結果、なのでしょう。

つまり「子どもは問題(大人から見たら ですがね)を持つ権利がある」わけで、それを自分で解決していく過程を支援するのが、周囲の大人の役割なのです。
しかし友だち関係でも、「欲求の対立」を解決する訓練ができていないと、「強迫的に支配的に一体化」するか、「激しく対立」するかの、2者選択しかありません。
特に対立する他者は、恐怖をよび、他者は過酷で容赦ないバケモノに見えてきます。
幼児にとって、「母親が怪獣に見える瞬間」は、ごく日常的な光景なのです。

しかも「いつも快」であるべき「良い子」の自分には、自分と一体化しない他者への憎悪は認められないので、自分の中の激しい憎悪が他者に投影して、子どもは「他者が自分に激しい憎悪を抱いている」と受け止めて、恐怖におののくか、容赦ない攻撃に出てしまいます。

これが、「キレた」状態なのでしょう。
まるでパニックに襲われたイノシシ状態です。

で、不登校児の「学校と聞くと、身体が震える恐怖」は、「ズル休みといわれる」から「イジメられ恐怖」まで、いわばこの被害妄想パニックが主体になります。
一方、楽しくワイワイやることで、かろうじて「快」同盟を維持している周囲は、自分の中にも眠る「恐怖パニック」に反応して、このKY(空気が読めない)な子を、ウザイと見て、排除しようとします。

これが、大人にはなかなか理解できない、卵の殻を尻に残したまま状態の、「友だち地獄」の「恐怖の総和」です。

TVの漫才やコントじみた、ボケと突っ込みの関係が、そのままイジメに発展することは、特にめずらしいことではありません。
担任教師が、「うちのクラスには、イジメはありません」と胸を張るのは、こうした表面上楽しくにぎやかなヤリトリの陰に隠れた、激しい憎悪と怯えのやりとりが、大人の目には見えないことがあるからです。

“こうした幼稚な心の構えは”
幼児期にはじまって、その社会的経験の広がりとともに、「快と苦」が徐々に統合されて、「快」の源泉である親の客観的な人格がみえてきたり、他の考える力や、心身の発育にともなう自信や性的発達とかと連動しながら思春期を乗り越えて、青年期をむかえるはずなのです。

しかしその統合が、最近は大人も、上手くいってない風潮があります。

毎日、ほぼタダで垂れ流される、TVに代表される、作り物の「甘い快」の強調や、「正義漢の仮面をかぶった幼稚な怒り」のメッセージは、彼らの社会観を幼児的2者択一の価値観に染めています。

小泉元首相の「絶叫型対決強調姿勢」が、立派な「大人」であるはずの、マスコミや国民の絶大な人気を集めたのは、なんでも超・単純化する彼の、マンガじみた「わかりやすさ」にあったのでしょう。

2チャンネル張りの「正義の怒り」を表出する、TV伝道師のような某ニュース・キャスターは、高い視聴率を誇っていますが、彼は小泉元首相に強い親近感を見せています。

一方、子どもにとって、逃げることのできない学校システムで身につけた、こうした環境への適応力は、社会人になっても「社会の学校化」が進んでいて、学校での価値や行動モデルに適応できなかった青年は、社会でも適応が困難になります。
引きこもりの多くが、社会人第一歩で躓くのは、こうした背景があるでしょう。

一部の引きこもり応援団が、この時期に焦点をあわせて動き始めてますが、現象の前提条件を見通しておかないと、失敗します。
善意からはじまっても、結局、放棄や戸塚ヨットなみの暴行に終わる例は、ヤマとあります。

“お勉強への適応が”
上手くいったかに見えても、それが過剰適応だったことで、途中で草臥れたり、さらに周囲も巻き込んでしまうほど、負荷を高めるヒトもいます。

現在、多くの企業や事業体が、働き盛りの精神的な故障による稼働率の低下や、新入社員の定着率の低さに、かなりのエネルギーをそがれています。
知識テストだけで選抜されたキャリアの国家公務員も、採用方法や人事の変革が迫られている時代です。
例えば一方で有能とされながら、家族には「坊や」と呼ばれたという、守屋元防衛事務次官の異様な肖像は、こうした過剰適応の人格構造をみないと、理解できてきません。

ごく最近、友人の医師から、共通の知人の息子である若い医師の、ドクター・ハラスメント行為の報告を受けました。
この点については、また別に報告しますが、その母親である有能な開業医である女医さんは、「息子が嫁をもらいたがらないの」と世間に訴えているとか。
ワタシの知る限り、「近親姦」かと見まごうばかりの、自己愛性で強く結びついた母子関係とその言動には前々から触れてましたので、息子のドクハラ言動には、素直に納得した次第でした(笑)

専門知識がない弱い立場の患者側からは、医療訴訟を起こせるだけの具体的な材料が無い限り、医療現場外での大人同士では許されないような医者の気まぐれにも、言いなりになるしかなく、頭にきても、ほとんど泣き寝入りが実際です。

学校や病院や役所や軍隊といった、権力や権威が集中する場は、往々にして、ハラスメントの温床になるだけでなく、その再生産・再連鎖の場としても機能しています。
そこにさらに最近の医療訴訟への警戒から、患者の受け止め方よりも、医師自身の自己防衛が優先されて、「良い子」のお医者さんによるドクター・ハラスメントが、いろいろな場面で頻発しているようです。

“話を戻して(笑)”
ワタシが気になっている、いわゆる「KY」という最近の若者たちのなかでの流行語なんですが、この現象は、心理主義的な「自分さがし」を求められた子どもたちが、相互の自尊心を傷つけないようにしながら、たちふるまう方法として、発達したんじゃないんでしょうか?

しかも、そのKYが、「異質なモノ」として、イジメのきっかけになっているところでは、もはや立派な「社会病理のドライブ」にもなっています。

支配的な養育環境のために、未熟な発育をした子どものなかに、奇妙な支配欲求や被支配欲求といった妄想が抱え込まれる例は、ヒットした多くのマンガやアニメが、こうした「全世界を支配する」魔法的な妄想ストーリーであることからも、簡単に類推できることです。

例えば小学1年生にとって、最大の望みは、「魔法が使える」ことです。
次の詩は、この時期の子どものものです。

 もし魔法が使えたら
 テレビに出てやる
 宿題を一瞬で終わらせてやる
 友達をみんな僕の仲間にしてやる
 お父さんがタバコを吸わないようにしてやる
 僕の家に有名人を連れてきてやる
 給食を残さないようにしてやる
 習い事を全部なくならしてやる
 お母さんが僕の言うことを聞くようにしてやる

歌あり、踊りあり、笑いあり、涙あり、色あり、ニュースあり、の、退屈な日常生活のなかで、唯一キラビヤカなTVの世界が、魔法世界の具体的な舞台として、意識されていることに、注意してください。
同じくらい強力なものにディズニーランドという魔法世界がありますが、あれは日常的に体験はできません。
で、この魔法世界と自分と「仲間」の渾然一体化したものこそが、ワタシが言う「彼らの幻想共同体」の実態です。

しかもこの「幼稚な心の構え」と、これに連動した「幻想共同体」は、中学生、場合によっては高校生でも、さらに青年期になってまでも、表現が変わるだけで、持ち続けている子がウロウロいるのです。
帰国子女の多くが、大学のコンパで、一緒にTVマンガの主題歌が歌えない苦痛を、よく訴えます。
「一体感が味わえない」ということは、「仲間はずれにされる→疎外される恐怖」に直結しているのです。

こうした構えは昔もありまして、ワタシのあまり信心深くないお袋は、「心を見られる」が口癖で、よく身震いするほどの怯えを見せながら、世間への適応に努めいていました。
また「お前(=ワタシ)が、考えていることは、ちゃんとわかるんだから」と、身に覚えの無いイタヅラなどを、事前にしかられることもありました(笑)
この読心的魔術は、子ども心にも奇妙に思ったものでしたが、この彼女の口癖は、こうした魔法的世界観と連動していたのでしょう。

“大きくなって”
この「幻想」に区分や種別やコダワリが出てくるのが、「オタク」と思われます。

そしてこうした魔法使いが、その願望を、子どもには理解できない大人や周囲の都合で、阻止されたり、満たされたりした気まぐれ環境で育った場合、そこで子どもに起きるストレスや憎悪は、恐るべきエネルギーになるわけです。

さすがに最近はデパートの床を転げまわって泣き叫ぶ幼児は見かけなくなりましたが、失恋しただけで、「自分がフラれるとは、信じられない」と泣き叫んだりウツ状態に落ち込む学生が、一流大学ほどウロウロしている時代なのです。

国民の80%近くが都市生活者になり、核家族化の進行とともに、その生活圏の密室化・孤立化が展開し、青少年の社会体験がとぼしくなり、子どもの「周囲との共同体意識」に、いろいろなレベルでの幻想がまじりこみ持続する機会は、かなり増えていると思われます。
大人までも巻き込んでヒットした「エヴァンゲリオン」は、正体が見えない敵と闘う、たまたま特殊な能力で選抜されたアダルト・チルドレンたちの心象風景を描いた話でしたが、あのヒットは、こうした背景をぬきには説明できません。

そして「減らない不登校・増え続ける引きこもり・連鎖する自死」という現象に、新自由主義政策がうみだす格差や、正規雇用者の減少は、一方に不安定な青年層を再生産する基盤として、働いたことはたしかでしょう。
また少子化問題も、子どもを作る以前に、「結婚できるほどの成熟が、精神的にも環境的にもできない若者」が、ふえているからでしょう。

それにしても、これも、「自己責任」なんでしょうか?
もしこれが「予測できなかった」というなら、「心のノート」の編集員たちは、「心の専門家」どころか、何も見てなかった、ということです。

現に外国の経済学者は、経済効率を追求した新自由主義的経営よりも、「ヒトを大切にしてきた日本型経営」に、新しい可能性をみています。

しかしその前に、果たして「企業生活に耐えられるヒト」が、育つのでしょうか?
まあ企業そのものも、「幻想」を商品としたり、「幻想共同体」化してますから、どっちもどっちかもしれませんけど。

“さて、やっと”
こうした現象への、新自由主義政策や「心のノート」の責任ですが、これは単純ではないでしょう。

確かに、新自由主義の旗手だった「鉄の女」マーガレット・サッチャーは、有名なファザー・コンプレックスで、父親の顔色が毎日の生存に直結する被虐待児によく見られる、「父親の支配的な価値感への服従・崇拝」がうかがえ、父親像を自分に投影した本人自身も、「支配欲求」が強かったと思われます。
(殺人などの重犯罪を犯した青少年の半数近くが、敬虔な宗教心や親への崇敬心をしめしており、多くは「天国と地獄」の2者択一の峻別で、周囲や自分を考えています)

「子どもが家長の奴隷・私有物だった」時代の名残りと言われる、この「親の子ども支配」が育てた彼女の資質が、政策内容の是非以前に、当時のイギリスの政治状況にふさわしかったというのは、市場資本主義の国家権力のリーダー資質として、「必要悪」的な草の根的側面を、示しているかもしれません。

現在先進国で、子どもへの体罰を法的に禁止してないのがアメリカ・イギリスですが、「世代間の暴力の連鎖」を容認する社会は、歴史的に被差別・被虐待を経験してきたユダヤ系が多いネオコンが目指す、中東和平への好戦的な政策をあげるまでもなく、「支配欲求の強い政治」と親和性が強いと考えられます。

で、日本ではといえば、過保護環境を生みやすい日本の「家族主義」や、体育系や一部の企業などに残る「儒教文化」的な上下関係の軋轢というのも、無視できません。
ともに、「心のノート」では、大切にされるべき伝統文化に、あげられてますが、こう見てくると、日本の「家族主義」というのは、「家長による子どもの私物化・奴隷化」の、口当たりが良いレトリックにすぎないのかもしれません。

“ワタシがそう疑う理由は”
多くのPTAや学校の先生などに講演してきて感じることなのですが、実はきわめて多くの親や先生が、「子どものための献身」を口にしながら、子どもとの対等な関係は、望んでないということです。

例えば、親からの「子どもの困った行動や問題行動」についての、アドバイスを求められて、「その子の行動が、あなた(親)に、どんな具体的な影響がありますか? その結果、困れば良いのは、子どもじゃないですか?」と、イジワルに応えると、多くの親が「困ってしまいます」(笑)

実際、子どもが勉強しないからといって、まさか今時「忠君報国」は持ち出せないので、親が困るのは、「自分の老後の不安」ぐらいのものなのですよ(笑)

文部科学省が、戦前からの体質を変えないと評されながら、教科書検定や、国定教科書といわれた「心のノート」とかに代表される「国家の教育権」に対して、なぜに国民から文句が出ないのかの理由は、「家庭や学校での子どもへの支配権」の背景に、国家権力がその権威の源泉として投影されているからではないでしょうか?

家族内コミュニケーションの歪みを治療する家族療法が効果を出すのは、日本・イタリア・ブラジルといわれています。
なんであれ、家族主義というのも、歴史的文化的なモノであることは、確かです。

社会病理としての、子どものなかの「恐怖の総和」現象は、そうした社会環境の、錯綜した影響のなかで、醸造されていくはずです。
逆に言えば、生産性のない「逆ギレ若者論」の横行もそうですが、子どもを囲む環境への社会病理的分析を、滅多に見かけないのは、単に学者やジャーナリストの怠慢だけでなく、「家族が、子どもが、すべて」といった家族神話もふくめて、「社会的タブー」すら感じます。

そんなわけで、新自由主義政策や「心のノート」が、病因論的なドライブとして作用するチャンネルは、すでに見たような子どもの精神的な発育状況と家族環境に応じて、そうでない社会よりも多いということはあるでしょう。

1979年世界に先駆けて「体罰禁止」を法的に定めたスウェーデンは、最近7年間で親に殺された子どもの数は1人ですが、イギリスでは年間50人以上、アメリカでは年間3000人以上(保護者に大怪我を負わされた子どもの数は400万人という説もあります)です。

新保守主義国家の好戦性と、その国内で殺される子どもの数は、直接の因果関係が見えないだけで、多分、比例しているでしょう。

“そんなわけで”
実際にこうした「心のノート」のような「有害文書」(笑)は、ポルノが青少年に与える程度の影響よりは、多いかもしれません。

ポルノが青少年に与える影響ですが、小児性愛やレイプなどの性犯罪者は、ポルノを見ている頻度が、非犯罪者より「少ない」という調査結果が、30年以上前から出ていますが、あい変わらず世間では、「青少年への有害図書」には過敏な反応をしています。
お医者さんゴッコや自慰に代表される、子どもの健全な性意識の発達と、性を忌まわしいものとして禁じられたことで、過剰な性欲望を膨らませた性犯罪者の違いすらも、大人たちは分かってないのです。
だから過剰な反ポルノ政策は、むしろ大人たちの密かな変態性欲を覆い隠した、「子どもへの過剰支配」に根ざした、子どもの「健全な性的関心の発育」を阻害する「組織的陰謀」以外の、なにものでもないのです。
アメリカに言われて、幼稚な母親代表の元女性アイドルとかを使って、急に小児ポルノへの制限を強めたがる日本政府は、子どもの人権を守ると称して、また違った次元での、新保守主義的な意図をもつようです。
(小児ポルノが、子どもの人権を阻害している点に、異論をとなえているわけではありません)

要するに、大人が「良かれ」と思ってする説教は、子どもがどうとらえているかを、よくよく見つめておかないと、なんの意味もないどころか、子どもに新しいドライバーを埋め込むことがあるということが、いいたいのです。

「心のノート」には10億円以上の税金が投入されたそうですが、コンビニの前にシャガミこむ中学生たちに、「自分探し」と「愛国心」を吹き込んで、「右翼」を作ることが目的だっとしたら、さいわいこれはあまり「成功」しませんでしたね。
しかし、結果は「13万人の不登校と、100万人の引きこもり」だったのですから、結末から言えば、「社会的凶器」とまではいいませんけど、「青少年層の内部分割」にはそれなりの効果はあったようで、イジメ現象を、ますます外から分かりにくくしたようです。

いずれにせよ児童虐待の兆候について専門家は、「とりわけ警戒すべきは、厳格な教育者たる己に自信をもっている人々ーどんな手段を使っても道徳や宗教、その他の価値観を子どもたちの精神に据えつけると自慢げに語る親なのだ」と、言ってます。

“蛇足ながら”
うれしいニュースですので、報告しておきます。
まだ先は見えないのですが、ここ数年、あることから引きこもっていた昔の生徒(このブログ開設に協力してくれました)が、近所のオバサンにネット・ショップの方法を教える先生として、出張講義をはじめたそうです(笑)
最初、報酬はおセンベやキャベツだったのですが、今度はバイト代がもらえるそうで、よかったです(爆)

100万人いる引きこもり対策として、自治体の組織的な就労訓練が必要ですが、そこにも出かけられないヒトもいて、そうしたヒトには、こうした下町のご近所の、「里親制度」みたいな暖かい視線が必要だろうと、前から言いたかったんですが、地域社会が崩壊した今の日本では、実現がムズカシイだろうと、口にはできませんでした。

実際には、相手はご近所のオバサンですから、いわゆる教育的な配慮どころか、オバサン自身がいろいろ問題を抱えているみたいですけど(爆)

ただなにはともあれ、むかしの生徒の社会復帰は、素直にうれしいです
  1. 2008/05/03(土) 00:00:01|
  2. 感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

カウンタ

プロフィール

元・学園長

Author: 元・学園長


ここを執筆する 元・学園長 ですが、還暦はとうにすぎているのに、最近、江戸 手描き友禅 の修行もはじめました。

ここの絵は、当時小学4年生の男の子が描いてくれた絵です。
下手な写真よりも、はるかに元・学園長の特徴をつかんだ、観察力と表現力なので、今でも大切にしています。

はじめての方は、引越しソバ代わりのおみやげもありますので、下記をご覧ください。
引越しのご挨拶

カレンダー

04 | 2008/05 | 06
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近の記事

最近のコメント

当方の記事に、関係がないと判断したコメントは、削除する場合があります

月別アーカイブ

カテゴリー

リンク

ブログ内検索